分断および相対主義についてのエッセイ
今晩は。毎度遅くなり申し訳ございません。謝罪から始まるのが誠にサラリーマン的ではありますが、ビジネスにおいても雇用者的視座と経営者的視座でもって展望しながら今後もお金にならない人材として独立オフィスを築いてゆければと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、冒頭から二軸を突き出して参りました。今回は分断そして相対主義などについて論じていきたいと思います。こちらは、先ごろ聡明な友人と通話し刺激を受け膨らませていきたいと考えました。思想が違えても尊重し合える態度は大切ですね。
友人との通話
「相対主義は差別に(偏りに)加担している。結果的に劣勢側を抑圧し優勢に有利に働く。どちらにもつかない人間はどちらからも信用されない。」
早速相対主義に対する至極真っ当なカウンターから取り上げます。忌憚の無いご意見に大変感銘を受けました。議論が白熱して険悪になるといけないので、自称平和主義の私は置き配型の議論を試みます。また、自分の思想の根幹に当たる部分になるので、共有して皆様と一緒に様々な角度から言い交していきたいと思いました。
相対主義を再考する
まずは自分の信条を振り返ると、相対主義にも色々と分類はありますが、方法論的相対主義ではないことは確かです。また、認識論、概念、道徳、審美とありますが、そのどれにおいても一理あると考えています。
相対主義者は嫌われます。信用されないです。そのうえで、そのどちらも享受しながらそれでもその立場を貫きます。それは何故か。少なくとも絶対主義的な位相に居るよりは比較的に分断の裂け目を修復する可能性があるからです。もっと言えば、相対主義者という仲介役が悪役になります。功利主義的に考えると、むしろその構造を狙います。
本当に信用され評価を得て、確固たる味方を増やしたければ片方の立場で絶対的に守られたほうがいいです。相対主義は敢えて言うと本当の意味で寄る辺がないとも言えますので、足元の定まらないグラついた道です。
そして相対主義的な思想は何処か詭弁です。レトリカルです。ただ、それにより議論が複雑化し深まるのは確かなのです。やらない善よりやる偽善です。そこを狙います。
分断にどのようにアプローチするか
何故なら、分断とは往々にして「分かり易さ」から出発するからです。相対的な見方は事態をどんどんと「分かり難く」します。ここが批判される所以です。
では、片方の立場に拠って立つとどうなるでしょうか。私はそれが穏当ならば事態は激化しにくいと考えます。ですがおしなべて偏りというのは極端であり、そもそもフラットでなければその意見はアテンションをまといやすいです。また、信条とは別に、過激に煽動し耳目を集め収益を得る古典的行動もあり得ますので、むしろ警戒が必要なんですね。
例えば、A>B というパワーバランスがあった際に、相対主義はその偏りを加担する件について。全体をみればBを上に引っ張り上げたいが、Bに肩入れすれば反動が起きるのが力学です。片方に寄るということは分断の深まりを加速させます。それでは結局双方の不幸を招くだけなのです。私のイメージとしては、Bに60%、Aに40%ほど肩入れをします。そうすると、相互作用で繋がりや連帯が出来る箇所が一部出てきます。全体が戦闘モードからやや温和なムードになる気がするのです。そこでこそ、「建設的な」議論の土台が醸成できます。
絶対主義のサブリーダー
ただし、物事には相対化するべきではないこともあります。例えばナチスの所業。こちらは歴史的背景を鑑みても批判されるべきであり、肯定的に言及する場合には非常に慎重で綿密な人道的配慮が必要です(ただし、第一次世界大戦後のベルサイユ条約などの要因で土壌が作られたといった「備考」はあって然るべきだと思います)。
その意味では、優先順位として(あるいは揺るがしようがない絶対順位として)絶対主義をリーダーに位置し、その周縁の議論材料として相対主義的思想をサブリーダーに持ち得るケースもあります。全てはケースバイケースなのです。議論にはしばしば前提が省略されます。ただ、人によってはそのケースの認識自体に微妙なズレがあるため、擦り合わせをするために微細な議論を借用する場合があります。
二元論と二重人格
これは少々個人的な話ですが、最後に自分が何故相対主義者になったか、もとい二元論と二重人格性について述懐してみます。元々私は相対主義的な考えが苦手でした。「是は是、非は非だろう」と。確かにそれもあり得て、つまり全ての議論に借用する必要はないのですが、例えばAとBが対立軸になったとき。私はAで進退窮まっていた際に、Bの立場からAの立ち位置を糾弾されること、追い込まれることが物凄く辛かったのです。そのときに相対主義的思想に救われました。これがまずひとつ。
もうひとつは、自分自身の悩みでもあるのですが二重性(多重性)があり、そのどれもが自分なのです。真があり偽があるわけではなく、そのどれもに中身がぎっしり詰まり、それぞれ個別具体的な歴史を有しているのです。どれかをフェイクにされると耐え難いものがあります。そうしたときに出来る限り全ての可能性を擁護してくれる相対主義は非常に相性がよいです。
おわりに
さて、今日は分断および相対主義についての随筆を認めてみました。如何でしたでしょうか。恐らく毎度何処かしらモヤモヤとさせるかもしれません。何故ならそのどれもが「分かり易く」なく、スカッとさせる断罪がないからだと思います。意地悪ではなく「結局何なんだろう?」という余韻が大切なのではないかと思っています。
今回の願いとしては、当然ながら少しでも分断が緩やかになり、様々な角度からの穏当な考察を経ていくことで見えてくる地平があればということ、そして自分の思考が隘路に嵌った際に、何か役立てるような一助になればという不遜な祈念から筆を取りました。
それでは今日もお相手いただき、誠に有難うございました。お陰様でまたひとつ、書くことができました。良い夜をお過ごしください。
参考URL
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/relativism.html
(参照 2024/09/18)
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