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口が立つのは母譲り

実家に帰って、母とずっと一緒にいると本当に腹が立つことが多い。

母には昔から、思想を強制されているように感じる。
生活面のほか、心がけや姿勢にまで口を出されることが本当に私は嫌だ。
私なりに学んで成長して考えている。それを目に入れようとしない。人を信頼していない。いつか本人なりに昇華してよくなるかもねえ、みたいな余裕がまったくない。ように感じる。
潔癖で、「こう思えばいいらしい」と聞くと「思わなきゃ」と自分に課してしんどくなるタイプだ。私に似すぎている。

そういうことを言われるのが嫌だと伝えると
「意見やねんから言うのは自由やろ」「それを強制やと捉えるんはあんたの気持ち次第や」「ほな何も言ったらあかんのか?」とか言われるので閉口する。
昔から喧嘩すると「ほな全部私が悪いんやな?」「死んだらいいってことか?」とか全部ひっくり返すような論理をぶつけてくる。
まったくもって極端で、口の立つ人だ。
そしてそれに対して私なりの正論でぶっ潰しに行こうとする私もまた、母譲りで口の立つ奴である。

たぶん、お互いの正論のベクトルが違うのだと思う。論理の違い、伝わらなさに愕然とすることが多い。
私が言葉を尽くして伝えようとすると「私は耳が敏感やからそんなばーーっと喋られたら分からへん」と会話を拒否される。なんでいつも被害者面。
いつも、よく喋る人の言葉は頭に入ってこないから苦手だと話しているが、自分が一番喋るやんか…とげんなりする。
まあ、そういうアンビバレントなところも母の生きづらさなのかもしれないが。

母の、自分の理解可能な枠の中に人を閉じ込めようとする感じも嫌だ。
昔から「あんたは人見知りやから」と性格や苦手なものを先回りして定義する人だった。
今でも、「○○(私)は対人が苦手じゃないんやろ?」「あんたは執着が強いからなあ、昔のことよう覚えてるねん」などと私のことを自分が普段考えている言葉で決めつけて縛る。母の言葉の使い方は独特でオリジナリティ強め。
そして「私は対人が苦手やから…」と自分の話をする。そのフックにするために質問しているとしか思えない。
対人ってなんやねん…と、言葉の定義にうるさい私はよく突っ込んでいってヒートアップする。飛んで火に入る夏の虫。
そういう人だとほっとけばいいのに、昔から飛んで入っていってしまう。

昔は、父と母が喧嘩しているときも、母の論理が許せずに突っ込んで行ってしまうときがよくあった。
「子どもは口出すな!」と言われたが、子どもだという理由で正論が排除されるのは大人の卑怯さだと当時は思っていた。

父とは、タイプも言葉の使い方も感じ方もよく合う。普段はわりと温厚な父がキレる時は、だいたい母がひどく怒らせている。
私の目から見て、父は溜めて溜めてある時ついにキレるタイプだが、キレたら時々物に当たっていた。
その様子を見て母は「パパは急にキレるから!」と言うが、あんたが普段から怒らせとるんやろがい…と正直父に同情していた。
手を出したほうが悪いというのはこの世の常なのかもしれないけれど。

まあ、二人の関係だから私にはよくわからない。
今は、母のよくわからん思想の話に対して、父はうんうんと相槌を打って、休みの日にはお互い少し距離を開けて、わりと仲良く付き合うことに成功しているようだ。
昔はテレビを見ながら適当に相槌を打っていた父が、いつの間にあんなに熱心に相槌を打つようになったのか。私の知らない間に二人の関係には変化が生じている。
私は未だに母の話には感情的になって全然穏やかに聞けないが、父がそれでいいのならまあ良い。

タイプは似ている父だが、私と違うのは平和主義で、私みたいに正論を突き詰めたりはしない。
学生時代には、母と物を投げ合う喧嘩をしていた私に、「正しさを突き詰めることは家庭の目的と違う」「パパのためやと思ってちょっと堪えてくれ」と父に言われた記憶がある。
そりゃまあそれは正しいのかもしれない、と感じた。
だからといって母と喧嘩するのはやめられなかったけど。別に私は、外で血の気が多いタイプではないのだけれど、母との関係性においてのみそうなってしまう。
家庭は色んなバランスと運があって成り立っているものだが、個人的に父が影の立役者だと思っている。
母に言ったら「私がどれだけ我慢したと思ってる!」と怒るだろうが。

家庭の問題って、閉じられた空間だからこそ見えづらく、みんな自分の家庭しか体験していないからこそ比べられるものではない。言葉になっているもの、なっていないものがあって、わからないことだらけだ。
でも確実に、生きづらさの芽は家庭にあるのだと思う。

毒親、という言葉はあまり好きじゃない。
好きじゃない理由はわからないけれど、HSPだとか物事を定義して特権化しようとする動きが好きじゃないのかもしれない。
もちろん、自分の生きづらさや被害を言語化する意味で必要な言葉だったのだろうと思うけれど、その役割以上に流行している気がする。

家庭の問題は比べられないのに、「毒親」という言葉を使うと、それは一部の酷い親のことだけで、自分は語ってはいけないのだと思わされる。
自分自身、過去も現在にもしてもらっていることは多い。善意で、愛を持って色んなことをしてくれているのは事実(だからこそ厄介な側面もあるけれど)。
それに、関係も悪いのか良いのか、本当に酷いことをされたのか、よくわからないところがある。多くの人はその複雑さを持ち合わせているんだろうと思う。
派手なエピソードだけがその家庭を定義づけるものではなく、本当に複雑なものだと思う。

昔友達に「○○ちゃんは中学受験してるから恵まれた家庭だよね、私のとこはさ~」と金銭的な苦労を語られたことがある。
その子が大変だったんだなあと思うと同時に「恵まれた家庭」で括って言葉を奪わないでほしい、と感じた。
お金をかけてもらったことはきっとありがたいことで、もらったものもある一方で、だからこそ息苦しさが語りづらい。

多分、それは全部に言えるんだろう。人の苦労や生きづらさは比べられない。それを歪めたり矮小化したりする権利は、誰にもない。

親というものは力を持っていて、子どもを支配することが可能だからこそ往々にして卑怯だし、許せないことをされた人はちゃんと怒ったほうが良い、と思っている。
家庭の違和感、辛かったこと、卑怯だと思ったこと、そういうものを比べることなく話せる、尊重してもらえる信頼がある、そういう世の中であればいいなと本当に思う。

それは「育ててもらったから感謝するべき」「自立してないとものが言えない」とか、そういうよく使われる論理と全く別のところにある気がしている。してもらっていることと、傷つけられたことは別で、だから帳消しでしょ、とはならない。

まあ、そういうことを親に直接言って引っぱたかれていた学生時代だったのだが。
言っていることが正しいかどうかと、その相手に言っていいことかどうかは違う。今はそれが昔よりは、少しわかる。(分かっていたら親と喧嘩しないか…)
本当に、口が立つのは母譲りだ。
そして、怒られても自分の主張を言い続ける諦めの悪さも、母譲りなのかもしれない。

また許す・許さないと別の次元で「まあ母にも色々あったんだろな」「これは母の凄いところだ」「一周回っておもろい人だなあ」などと思う時もあるし、きっと自分に子どもができたり年を取ったら意識が変わったりもするんだろう。
親がしたことという視点と別に「そういう状況になってしまってたんだな」と背景がすとんと落ちるときもある。

ずっと話してるとしんどいわ、みたいな人でもふと話したい話題ができたりもするし、関係性も変化する。人間関係は好き・嫌いでは括りきれない。身内ならなおさらだ。
みんな、生きづらさをエネルギーにして、長年かけて自分なりの形に昇華していくんだろう、みたいな意識がある。
そこに対しての信頼は、自分にも他人にも持っておきたい。


この間、父と山登りに行った。
近くに落ちている、大きめの木の棒を見て、父が「ママはこういうの拾って杖にする」と言っていた。
それは、まさしく私がよくする行動と同じだった。私は海辺に行っても山に行っても、よくお供にする枝を探していた。
なんでもないところも含めて、私は母とよく似ているのだなあ、と思った。

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