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応答するような生活
今私は無職だが、仕事をしているとき、オンオフという言葉が苦手だった。
「仕事」と「プライベート」を分けるというような考え方も。
仕事以外の私の時間がオフであってたまるかという気持ちもあった。だがしかし逆に、仕事をしている時間をオフにはしたくない。
自分が心のどこかで納得のいかないことに1週間のほとんどを費やしたり、死んだように働くのは嫌だった。
仕事と自分の気持ちがうまく調和していなかったせいもあるだろうと思う。
今私は、仕事をしていない。
この状態を何と呼ぶのかよくわからず、「最近何してるの?」と言われると「うーん、特に何もしてない」と笑ってごまかしていた。
そうすると、休職中だとか次の仕事を探している途中だとか、そういう社会的カテゴリーに勝手に入れてくれる。でも実際、そのどれでもない気がしている。
だからといって本当に、日々何もしていないことはない。これからのことをぼんやり考えているのも事実だが、それ以外に生活をしている。
そもそも、何もしていないってなんだろう。
私は数年間ほぼ毎日日記をつけているが、数年単位で見ても、半日以上寝ていた日ですら何かしらのことをしているのだ。
何かYouTubeを見ていたら謎の記事に巡り会って読み込んだり、冷凍ご飯を解凍して食べたり、友人にLINEを返したり。
そういう小さな自分の周りに根ざした活動と、お金を稼ぐ労働を比べると、どうしてもこの世の中では労働のほうに価値が置かれやすい。
だからこそ、オンオフという言葉もあるのだろう。
オンオフの境界が薄い、連続的な生活が理想だなあと、最近何となく思う。
友達とご飯に行くことも、仕事をすることも、イベントに行ってみることも、家で趣味をすることも、散歩することも、すべて私という人間の活動であるという意識。
何かに比重が偏りすぎることがなく、優先順位などという概念の薄い感覚。均衡の取れた生活。
最近、仕事をせずにぼけっとしていると「私」であるということを感じる。
客観的に、仕事をしている方が「やらなければならないことがある」と思われがちだけれど、仕事はいくらでも私の代わりがいて、特に私である必要がないことも多い。
それがいいか悪いかは状態による。私でなくてもいいというのは身軽で自由だ。
週の大半を占める仕事という活動をしていないと、なんというか私個人であるということを意識せざるを得ない感覚がある。私生活って、こういう意味だったのか、とかぼんやり思う。
昔どこかで「家事は、自分にしかできない必然性のある行為」というような言葉を見かけたことがあり、膝を打った。
このお皿を洗うという行為は、今ここにいる私にしかできない。
何をしたって自分じゃなくてもいいような気がするこの世の中で、革命的な捉え方だと思った。
人との関係ももちろんそうで、交換可能なように思える世の中だけど、例えば母という人にとって私という娘は1人だ。
そう思うと、私にしかできないことというのは、確実に存在する。
だからといってその人自身と正面から向き合いたいと思うことばかりではないが、目の前にある問題をどう対処していくかを考えられるのは私だけだ。
話すも、逃げるも、向き合うも、距離を取るも、決めるのは私だ。
使命ってそういうことなのかもしれない。
必然性のあることに、自分なりに応答していくような感覚。
今私は感覚としてわりと、応答するように生きている。
家族やパートナー、友人と話したり、人からたまに来る相談に乗ったり、パートナーと食べるご飯を時々作ったり、妹に教わった編み物をしたり、母に頼まれたチラシ配りを引き受けたり、見かけたイベントに行ってみたり、そのへんにあった本を読んだり、自分の身体に従って寝たり、こうやって溜まった下書きを完成させたり、以前から録音していたpodcastを更新したり。
自分という存在にやって来るもの、すでに持っているものを、ゆるやかに受け止めてできる範囲で応答する。
今のところそうやって楽しく生きさせてもらえる環境、周りの人に感謝もしている。
でもそれ自体、私の周りの関係性に根ざしたものであり、日々周囲の人たちと関係性を構築したり試行錯誤しているのは私だ。
そういう試行錯誤も、連続的な私の活動なのだと思う。
人生には色んなフェーズがあって、応答という感覚が薄く、もっと開拓して回らなければならない時期もあるんだろう。
私にとって、関東で働いていた期間はそういうもがく時間だったような気もする。
でもその開拓せざるを得ない期間にあった出来事、出会った人が今の私を作ってくれて、今は応答する生き方にほのかな幸福を感じる。
そしてずっとこのままでは多分いないだろうから、そのうちまた開拓するフェーズは来るんだろう。
昨日、私の友人どうしを初めて引き合わせる機会があった。
私が去年から続けているpodcastを聴いて、出てくれていた友人に会いたい!と言ってくれた昔からの友人がいたから実現した会。
私の大切な人どうしが一堂に会しているのは本当に嬉しい光景だ。
初めて集まる3人なのに、テーブルを囲みながらお互いのことを話したり「うーん」と考え込める時間が作れて幸せだった。
そんな時間がとても良かったから「この3人の会話、貴重だからpodcastにしてみたいなあ」と自然に思えて、言ってみた。
自分がやってきたこと、出会えた人が繋がって新たに波紋が広がる、そしてそれにまた応答する、そういう営みは貴重で幸せなことなのだなあと実感した。
応答の先に、続いていくものがある。自然に「これやってみたいな」が生まれたとき、ふだん何事にも興味関心がそれほど強くない私は、自分って空っぽじゃなかったのか、と改めて驚く。
ちなみに「応答」という言葉が好きで、このnoteであえて使ってみた。
以前読んだ本で、「意志」と「責任」などについて書かれる中で「応答」という言葉が出てきたことがあった。
簡単に言うと、世の中ではよく「あなたが決めたことですよね」と言って「意志」を理由に「責任」を取らせようとするが、そもそも人間は、周囲や過去などから影響を受けずに独立した「意志」をもつことなど有り得ない。
そこから議論は進み、本当の「責任」とは何なのかについて語られていく。
今使われている「責任」は、意志という概念を使って人に押し付ける責任ですよね。でも、もともと責任ってそうじゃなかったはずです。
責任というのは「responsibility」であり、応答すること(response)と切り離せません。
自分の直面した事態に応答しなければならないと感じること、それが責任ではないでしょうか。
自分の直面した事態に応答しなければならないと感じること、それが私にとって「必然性のあること」「自分に関係すること」に応答するという感覚なのだと思う。
それは人に押し付けられるものではなく、自分の中から自然に湧き上がってくるものだ。
「必然性のあること」「応答しなければならないと感じること」の範囲も、生きていくうちに徐々に変わっていくんだと思う。
例えば世界平和とか大きなことに本気で取り組んでいる人は、応答しなければならないと感じることの範囲が広いのだろう。
感じられる範囲は人それぞれで、それが良いとか悪いとかではない。
私は、私がいま必然性があると感じられる身の回りのことに、できる範囲で応答していく。丁寧に、自分なりに考えて、精一杯応答する。
その先に何かあるのかもしれないし、ないのかもしれない。それだけなんだと思う。