和心

後期高齢者の男性です。 若い時に読んだ名作と言われるものを最近再度読みだしたりしています。目下は、「史記」。その前は「三国志演義」。 ここに投降するのは、引退後読んだ本の備忘録を編集しています。分野は多岐に流れます。

和心

後期高齢者の男性です。 若い時に読んだ名作と言われるものを最近再度読みだしたりしています。目下は、「史記」。その前は「三国志演義」。 ここに投降するのは、引退後読んだ本の備忘録を編集しています。分野は多岐に流れます。

最近の記事

石川達三「風にそよぐ葦」

この本を初めて読んだのは高校1年か2年の頃。50年以上もたつ。 昭和33年の発行とあるから、出版されて間もなく高校の図書館で読んだのだろう。 「生きている兵隊」を取り上げた関係で、石川のことを調べ出したが、この本だけは是非もう一度読みたいと思っていた。上下組で498頁になる大著であったが、4日間で読み終えた。読書の感動を久しぶりに味わった。 基本的なテーマは、個人の自由の大切さ、思想よりも愛情、人間と人間の感情のつながりの重要性、それが基本であるという認識、自由主義者の孤独

    • 「生きている兵隊」(6)

      その他; 「武漢作戦」といういわば「生きている兵隊」の続編とでもいうべき作品に少し触れておきたい。 「武漢作戦」は昭和14年1月「中央公論」に発表された(特派されたのは前年9月)。 ここで取り上げたいのは2点。 ①    何故再度の派遣従軍となったのか ②    作品の内容は、有罪判決と言う事実を受けてどのようなものになったのか。 ①    に関して結論的に言えば、石川達三から見れば中央公論社への“償い”と自分自身の“名誉回復”、中央公論社からすれば軍を含む当局に対して従

      • 「生きている兵隊」(5)

        作品のポイント; ここでは、昭和13年の裁判を通して「生きている兵隊」のもつ歴史的意味を掘り下げていきたい。 起訴理由は二つあった(新聞紙法違反)。 ①    虚構の事実をあたかも事実の如く空想して執筆した。 白石喜彦「石川達三の戦争小説」によれば、判決書に判断の記載がないので、争点 として回避されたのではないかと推測している。 ②    (そういう行為は)安寧秩序を乱すもの。 石川と、発行人、編集人の3人が起訴された。石川は禁固4か月(執行猶予3年)。14年4月の二審で

        • 「生きている兵隊」(4)

          以上概要を示したが、内容的に整理すると次の通り。 ①    日本兵の残虐行為の記述 女狩りを示唆する兵士の嵌めてきた銀の指輪。「生肉」の隠語。 「捕虜は捕えたら殺せ」。「命令ではなかったがそういう方針が上部から示された」。 下関における逃げ去ろうとする中国兵への攻撃の描写。両岸からの機銃攻撃。止めを刺す駆逐艦。 ②    被害者としての中国人の記述 水牛や馬の徴発に抗議する年老いた農婦。抗日中国兵の処刑。 母親の死を嘆き悲しむ若い女の声、苛立つ兵士たち。夜中になって耐えら

          石川達三「生きてる兵隊」(3)

          本作品は、上記のように当局の忌避に触れ、敗戦までは出版が許されなかった。何故忌避に触れたのか。 それは戦争に伴う罪悪行為を石川が書いたからである。 又、主役と思われる4人の将兵の、軍人ではなく、人間としての心の動きを描写する中で、戦争に対する嫌悪や平和への願いなどが示唆されており、軍の目指す戦意高揚とは相反するからである(詳しくは後述)。 石川は、昭和12年12月から3週間にわたり南京を含む中支戦線を視察、13年1月に帰国した。石川が滞在した南京は“南京大虐殺”事件直後であ

          石川達三「生きてる兵隊」(3)

          石川辰三「生きてる兵隊」(2)

          作者の紹介; 浜野健三郎「評伝 石川達三」に従って、石川の生涯を振り返ってみる。 明治38年7月2日、秋田県横手町に誕生。父祐助は英語教師。文武両道に優れ神童の誉れ高き、と言われている。母親うんは大館の富裕な家の生れ。若くして未亡人となり、祐助と再婚。美人と言われていた。浜野は、石川にはエディプス・コンプレックスが見られるとその著書に書く。 石川は、孤独感を子供のころから味わう。父の転任に伴い、東京や高梁(岡山)で小学生時代を送るが、田舎者、方言などの理由で仲間外れとなる。

          石川辰三「生きてる兵隊」(2)

          石川達三「生きている兵隊」

          以下は、8年前に書いたものであることをお断りします。 作者紹介、内容紹介、論評と分けて掲載してゆきます。 石川達三(1905-1985)と言う作家を知っている人は、今では多くはないであろう。 今年[2015年]は石川の死後丁度30年である。同年生まれの著名人には、円地文子、片岡鞠子、水谷八重子等がいる。 私がこの作家のものを読んだという確かな記憶を持っているのは、「蒼氓」と「風にそよぐ葦」である。高校在学中に学校の図書館で読んだ。その頃の朝日新聞に「人間の壁」が連載されてい

          石川達三「生きている兵隊」

          「オリバーストーン オン プーチン」

          ウクライナ侵攻前の2015年から翌年にかけて映画監督のストーンがインタビューしたもの(本来は映像として残る)。  ロシア側の主張が以下のように語られる。 1. ミンスク合意の無視とその後の東部ロシア系住民への暴力 2. ソ連体制崩壊直後のミュンヘン会議におけるNATO のゴルバチョフへの約束 3. 国境を接した隣国に米国製武器を有する基地の存在が与える脅威(防衛のためのミサイル基地でも忠津にロシア攻撃用ミサイル発射基地になる 4. 国連憲章の「民族自決の権利」→東部地域及び

          「オリバーストーン オン プーチン」

          小泉八雲「小泉八雲「明治日本の面影」(講談社学術文庫)

              小泉八雲「小泉八雲「明治日本の面影」(講談社学術文庫)読み終える。大変興味深い。明治期に日本を訪れた西洋人の中では全く異色。もし妻子がいなければ、本来の紀行記作家として日本を去っていったことであろう。日本の江戸期までの文化的・道徳的遺産にほれ込み、この本を書き世界に紹介したが、その後文明を進める日本に嫌気を感じたことが随所に率直に書かれている。  本書は、以下の内容から構成されている。 1. 英語教師の日記から 松江の中学に赴任した明治23年の記録。田舎の風俗に対し

          小泉八雲「小泉八雲「明治日本の面影」(講談社学術文庫)

          「日本の追慕」

          筆者エラスムス(1854-1923)はポルトガル人。海軍軍人として所用で来日。日本の強い印象を受けて帰国後又来日し、領事などをしながら日本人妻を得て徳島で死去。日本人が恥ずかしくなるくらい、西欧文明到来以前の古き日本を賛美。 ・    中國との対比で日本の風景、自然、乙女、清潔さなどを賞賛。特に昔ながらの風景。日本の女、特に乙女のへの「和服を着たしなやかな肢体、優美な顔、物腰の優美さ、丁重な挙措、異国情緒」にほれ込む。 ・    日本人の清潔好きを強調する箇所が相当数見られ

          「日本の追慕」

          「ベルツ日記」(明治文学全集49 所収 筑摩)

          実に面白かった。明治初期から、憲法発布、日清・日露戦争等の事件へのコメントや、当時の社会や指導者の意識等をよく捉えている。歴史資料として多分一級品だろう。 明治9年医学校教授として来日。 来日外国人の日本人への評価を大きく二つに分ける。 「何でも持ち上げる」一派と、「なんでもこき下ろす」一派。 当時の風潮がよく分かる個所を示すと; 教養ある日本人の奇妙な「日本の歴史」の否定。 ベルツに対し過去の歴史は「すっかり野蛮なものと」する。不思議なことに、今の日本人は自分の過去につ

          「ベルツ日記」(明治文学全集49 所収 筑摩)

          「ニコライの日記」(2)

          中巻 ・    明治25年から34年まで ・    日本国民は、仏教、儒教、神道という3人の宗教的養育者ともう一人の    教師である厳格な日本政府によって、この世に生きるための称賛に値す   る良いしつけを身に着けた。このしつけは、東京、盛岡、鹿児島等外国    のものを喜んで取り入れている地方では崩れている。 ・    三国干渉の余波として「異教徒が正教徒に攻撃を仕掛けている」との記   述。(明治28年5月) ・    明治28年6月、日本全国で22,271人の正教信徒

          「ニコライの日記」(2)

          「ニコライの日記」

          ニコライとは、東京・お茶の水にあるロシア正教会のニコライ堂の創設者であり、維新後の日本で身命をかけて布教活動に生涯をかけたロシア人僧侶のことである。 岩倉使節団に関する書を読んだその延長線で、当時の日本を外国人がどのように見ていたか、という視点で本を読み始めた。その2回目。日本の地方の現状が、ニコライの説教活動による出張のおかげでかなり詳しく描写されている。又、秀吉の故事や、西郷隆盛崇拝など、耳学問であろうがよく知っていることには驚かされる。 ロシアから日本へ行く英国船で見

          「ニコライの日記」

          アドルフ・フィッシャー「明治日本印象記」

          興味深い内容が随所にあるので以下、幾つか取り上げておこう。 著者(1856-1914)はオーストリアの美術研究家。特に東アジへの関心が強い。  近代化の教師として招聘した外国人とは異なり、自らの関心で何回も日本を訪れ、日清戦争前後の日本の状況をよく観察し、記録したものが本書である。 1869年の、アメリカ横断鉄道全線開通、スエズ運河完成が「世界周遊ブーム」を引き起こし、その波が日本にも押し寄せた。→アーサー・クロウ(英人)、イザベラ・バード(英人)。フィッシャーもその一員。

          アドルフ・フィッシャー「明治日本印象記」

          ローマ人の物語 9

          452年春から秋まで北イタリア一帯はフン族の侵攻を許す。ローマ司教レオの伝説(暴虐を非難し慈悲の大切さを説きアッティラを説得させたとする)。莫大な講和金を手にしてフン族は撤収する。453年、アッティラの死。フン族の内訌と霧散解消。 439年、カルタゴ10年の攻防の末陥落。ヴァルダン王朝の成立。ローマ人上流階層の離脱と社会の変化。カトリック派の衰退と非カトリック派の全盛。農産物 の生産量低下。 455年、ゲンセリック率いるヴァルダン族の徹底的なローマ略奪。468年、東西ローマ連

          ローマ人の物語 9

          ローマ人の物語 8

          15巻「ローマ世界の終焉」 古代ローマ皇帝の二大使命は国境の防衛と民政(食料と治安) 何故終焉を迎えるようになったか? 蛮族の相次ぐ侵入(ライン河とドナウ河領域からガリアとイタリア北部へ) 帝国の防衛力の弱体化(領土の拡大・ローマ市民軍の解体・傭兵・蛮族出身者の司令官) 東ローマ帝国のオリエント化。西への無関心とその後に生まれた敵意。 財政上の問題と指導層の荘園領主化(国よりも自分中心。公共意識の希薄化) 5世紀初めの東西の空気は、東の「蛮族とアリウス派の専横から西方の解放

          ローマ人の物語 8