三島由紀夫「金閣寺」(2)
昭和25年7月1日、早暁、ついに金閣寺は燃え始めた。
すべての準備が整い、精根尽きた「私」の心に、「ここまでやったのだから・・・行為をしなくても良い」のではないかという認識が訪れる。その葛藤を破ったのは、臨済録示衆の一説「仏に逢うては仏を殺し・・・・初めて解脱を得ん」。この辺は、三島の博識が小説の材料として生かされたというべきであろうが、多少の違和感は残ろうか。
金閣寺は、「私」を結局はがんじがらめに拘束し、規制する存在にまでなってしまった。そこから逃れようと思えば、金閣寺を焼くしか方法は残されていなかった。「私」が、「私」として普通に女と交渉し、生きてゆくためには、この行為は必要であった。「悪は可能」であっただけでなく必要でもあったのである。
「南禅斬猫」(碧巌録)の挿話は、この小説のテーマを象徴している。あまりにも美しい猫、それを自己のものにしようとする衆(禅僧)。衆の答えを求める南禅和尚。答えぬ衆を前にして猫を斬り捨てる。後刻戻ってきた高弟の鄭州は、はいていた履を頭の上にのせて出てゆく。鄭州がいれば猫を斬らなくて済んだのにと嘆く和尚。美とそれにとらわれる衆。その確執を破壊が解決する。正解は鄭州。「私」が、自殺するのをやめて生きようと思ったのはここにその答えがあるのではなかろうか。
水上勉の「夕霧五番町」をもう一度読んで比較してみたい。
実際の犯人は7年の懲役判決で収監され、1956年、26歳で病死(精神疾患の上)。母親も事情聴取され、帰郷する汽車から飛び降り自殺する。
尚、新潮社の三島由紀夫全集第6巻(「金閣寺」収録)には、創作ノートがついており、きわめて興味深い。
この小説の主題として、①美への嫉妬 ②絶対的なものへの嫉妬 ③相対性の波に埋もれた男 というメモが真っ先に目につく。
その他、犯人の大谷大学時代の成績表、家族関係、警報機の故障の具体的状況、警察での供述調書、服役後の犯人の動静などの事実が詳細に残されており、三島が創作した部分は?と感じさせるほど、この小説は事実に立脚しているといえよう。三島の創作は、主題の設定と、犯行に至るまでの心理的・行動的推移、犯人関係者の生活付けとその描写、という風に理解することも可能であろう。
更に、この創作ノートには、小説全体の構成や、各章ごとの構成や人物の展開等のメモも見ることができ、作家の創作過程が実に周到に準備されていたことが判明する。
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