【小説】せきれいの影|2話
初冬の朝の薄明りのなかで、女がしりもちをついていた。
高価そうなカメラを右手に持って、器用に左手で体を支えている。
「大丈夫ですか?」
「はい、何ともないです。それより、そこ、危ないですよ」
「え?」
ふと横を見やると、いびつな形をした白い塊が転がっていた。
アパートの屋根から雪が落ちたのだ。
それも、昨日の暖かさで少し溶けたものが、再び凍って屋根から滑り落ちた固い塊だ。
雪というより氷塊だった。
「あと二歩か三歩で当たるところでしたよ」
「危なかったですね。立てますか?」
「はい、本当に大丈夫です。すみません、ご心配おかけして」
その言葉通りひょいと立ち上がった。
安心した。
うなだれてため息をつきそうになったが、何とかこらえた。
彼女は隣の部屋の住人だった。
表札もかけていないのでので苗字は知らない。
たまに顔を合わせても会釈するぐらいの間柄だ。
女にしては背が高く、瘦せていて、ぼさぼさの癖毛に雪がちょっとついている。
「すみません、ひょっとして、こんな時間に起こしちゃいました?」
「いえ、今日はたまたま早くに目が覚めまして。寝るのを諦めて茶でも一服しようかと思ってました」
嘘はついていない。
「そうですか」
「しっかし、危ない作りだなあ」
改めて安普請のアパートを眺める。
恵梨香と暮らしていたときはもうちょっとまともな外観をしていたと思う。
年金暮らしの老夫婦との近所づきあいもあったが、いつともなしにどこかへ行ってしまった。
ここは住人の入れ替わりが早い。
いま住んでいるのは、日雇いや、めったに姿を現さない痩せぎすの男、水商売の女、二人組の外国人、などなど。
そんな連中が雑居している。
俺もその一員だ。
夜がだんだんと明けてくる。
朝焼けがしそうな空だ。
改めて隣人の姿を見やった。
ふかふかのダウンに細い足とジーパンが不釣り合いだった。
しかし、不格好というわけでもない。
「そのダウン、センスいいですね。ええと……」
「三川です。『数字の三に川』って書くの。居そうで居ない名前だから毎回こうして伝えてるんです」
こっちも自己紹介を返した。
「木戸といいます。『木曜日の木に戸締りの戸』で伝わるかな」
「そっちも居そうで居ない名前だね」
「名刺でもあれば便利だよね」
どちらからともなく笑った。
それからしばらく、当たり障りのない話でひとしきり盛り上がった。
「なんで半ドンってあるんだろうね」
「本当にね。繁忙期ならまだ分かるけどこの時期に出勤して何になるんだ、ってよく思うわ。今日は三年ぶりに友達と飲むのに、その前に疲れちゃうよ」
「へえ。三年ぶり、ってことは付き合い長いの?」
「地元の幼馴染。高校まで一緒だったんだわ」
「長いねえ」
「あいつとは長いなあ。もう一人いるんだけど、そいつはどうしようもないボンクラでさ……」
「そうなんだ。あ、ちょっと話が変わるんだけど、いい?」
「え?」
三川さんは、やはり少しふやふやした口調でいった。
「何年か前、コンピュータの筐体を搬入してたよね。びっくりしちゃって」
びっくりしたのはこっちの方だ。
コンピュータという名前からしてようやく広まり始めたところなのに、三川さんは『筐体』という言葉まで使っている。
「もしかして、三川さんもコンピューティアン?」
「うん。後々面倒にならないようにいっておくけど、SEMに参加してます」
「へえ」
「で、このアパートにコンピュータでしょ? ひょっとしたら木戸さんも? ってずっと勘ぐってて。でも、会社勤めしてるみたいだし、勘違いだったね」
それでこの安アパートに住んでいるのか。
シンプル・ユートピアン・ムーヴメント、略称SEMは、オンラインで形成された一種のコミュニティだ。
とにかく贅沢を嫌う連中、ぐらいに思っていて、外国語サイトをちらっと覗いたことしかない。
大多数のコンピューティアンも、敬遠するか、カルト扱いするか、どちらかの理由でSEMには近づこうとしなかった。
とはいえ、当事者の前でSEMを悪くいうつもりはない。
「SEMの人たちのスペースは覗いたことあるんだけどね。『世の中はリッチ・ディストピアに向かって進んでいる』って良くわからん外国語で書いてあったのはなんとか読めた」
「そうそう。世の中では争いが絶えなくて、欲望や憎悪が渦巻いて複雑怪奇なモンスターみたいになってるでしょ? だから私たちは『足るを知る』で生きましょう、っていう主義。いっつもカルトじみた禁欲主義者と誤解されるけど」
ちょっと不服そうな割に口調と表情は変わらずぽやっとしていた。
それに「足るを知る」という表現のおかげで、彼ら、彼女らの言い分が少し分かったような気がした。
「あ、SEMの決まりで勧誘はしないことになってるから、そこは安心して」
「了解」
了解、というのはオンラインで肯定する意味合いで使われるスラングだ。
すると、
「あはは、オフラインで『了解』っていう人、久しぶりに見た」
「居ることには居るんだ」
「うん、それこそSEMのオフラインミーティングとかでね。あ、ところで」
木戸さんは燃えるような朝焼けを見上げて、
「今日、半ドンと飲み会なんでしょ? 仕度しなくて大丈夫?」
そのとき、図ったように目覚ましの音がドア越しに聴こえてきた。
まだ歯も磨いていなかった。