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【小説】せきれいの影|4話

――木戸きどちゃん、大変だったね
――警察もそこまでする必要ないのに

――本当だよ

 ムロアキには実刑なしの更生施設入所命令が下された。
 初犯で実刑なしとはいえ、あのボンクラには堪えることだろう

 根性を叩き直してもらえばいいんだ。
 俺と誠一だってとばっちりを食らったんだから。
 
 任意同行したあのとき、取調室で、本物の犯罪者を見るような目で取り調べをする刑事の態度に腹が立った。
 もちろんやましいことはないので、ありのままをしゃべった。

 取調まではまだ忍耐できた。
 刑事も仕事でやっていることだ。
 そう割り切れば溜飲が下がった。

 本当に怒りを覚えたのは、その後、有無をいわさず鑑識に回されたことだ。
 指紋や身長、靴の型まで取られ、本当の犯罪者のように顔を撮影された。
 当然、そのデータは警察で保管されるはずだ。

 腹に据えかねることには変わりないが、そのまま愚痴るのも大人げないだろう。

――まあ、いいんだ
――これでイヤでも悪いことができなくなったし、ムロアキ(例の大麻やった奴)にはヤキ入れてやるから、そのときにうっぷんを晴らしてやるよ

 精いっぱいのユーモアだ。

――ところで、香ちゃん、まだ落ちなくて大丈夫なの?

――私は大丈夫だけど

 夜の十一時、三川みかわさん、もといきょうちゃんとテキストをやり取りしている。
 新しいコンピューティアン仲間、それも壁一枚隔てた向こう側の住人とテキストを交わすのは不思議な気持ちになるものだ。

 頻繁にやり取りするうち、よそよそしい呼び方はやめようか、という話になった。
 俺のあだ名は『木戸ちゃん』。
 三山さんは下の名前の香子きょうこから採って『香ちゃん』。
 
 初めは『三山ちゃん』と呼んでいたが、ほどなく「なんか変」と不満が漏れて『香ちゃん』となった。
 まだ浅い付き合いなのに、下の名前で呼ばせる辺り、香ちゃんの呑気さが遺憾なく発揮されていた。
 

――明日のアルバイト、移動も含めて三時間ぐらいなんだよね

――どんなバイト?

――ここの大家さんのアトリエでいろいろやってる

 びっくりして、自分の口から「へえ」と独り言が漏れた。

――大家さん、アトリエ開いてるんだ

――小さいけど素敵なアトリエだよ
――縁があってお仕事させてもらってるんだわ

――どんな仕事?

――週に二回のお掃除と、大家さんの絵のモチーフを撮った写真を納品するの

――そういえば、初めて会ったときカメラ持ってたね

――うん、あれも大家さんに頼まれたんだわ
――雪景色なら何でもいいから、って
――いくらなんでも適当に撮るわけにいかないから、夜明けを狙って撮影したの

――なるほどね
――ていうかさ、大家さんから給料もらってるなら、家賃減額してもらっているのと一緒だね

――HAHAHA

――なして笑うの HAHAHA

 あっという間に時間が過ぎていく。
 隣の部屋の住人は、いま、どんな顔でテキストを送ってくるのだろう。
 ほかのコンピューティアンの表情なんていままで考えたこともなかった。

――それにしても、年食うと夜更かしがきつくなってくるもんだなあ
――香ちゃんはまだ実感ないだろうけど

――そういっても二十五なんですけど
――女性に歳をいわせないでよ

――失礼しました
――でもさ、これからインフラさんの手伝いやるんでしょ?

――うん、ちょっとしたアシストね
――二時間ぐらいで終わるやつだから

 香ちゃんが参加しているSEMシンプル・ユートピアン・ムーヴメントは、多くの人々の労働のうえに成り立っている。
 自分たちだけ質素で安楽な生活を求めるのは不公平だ、という思想がSEMセムの人間にはあるらしい。
 なので、無償でエンジニアの手伝いをするのが不文律となっているそうだ。

 なかでも”インフラさん”つまりインフラエンジニアの手伝いは歓迎される、と、こないだのやり取りで教わった。
 インフラがダメになれば、当然すべてのコンピューティアンが不自由するので、責任が重い。
 それ以前に、インフラを手伝えるというだけで高いスキルがあると公言しているようなものだ。

――明日もお昼前に起きれば大丈夫だから

――明日は素材撮影ないの?

――うん、もう充分納品したから

――そうかい
――あ、ちょっといい?

――なしたの?

――今度、機会があったらSEMセムのこと教えてくれないかな

 隣人から返信がくるのにたっぷり五分かかった。
 やけにそわそわして隣人からの返信を待った。

――木戸ちゃん、いま、心が弱ってる?
――そういうのに付け入りたくないんだよね

――弱ってるのは否めないな
――まあ、興味が湧いてきた、ぐらいの話だから

――そっか
――また今度改めて話し合おうね
――ところで、木戸ちゃんこそ落ちなくて大丈夫?

――あと一時間ぐらいは大丈夫だけど
――まあ、たまには早寝するかな
――それじゃ落ちます

――了解、ゆっくり休んでね

こちらも「了解」と返して、コンピュータをシャットダウンした。

 
 寝る前の一服をしながら、恵梨香の遺影を見やった。

 俺は一体何者なんだろう?

 恵梨香がいれば、そして子宝に恵まれれば、こんなことで悩む暇もなかったんだろうけれども。

 独り身だからこそ、いろいろ考えるし、冷めた目で世間を見渡せる。

 誠一は、母一人子一人の貧しさをバネに会社を起こすまでになった。
 
 香ちゃんはぼんやりしているようで根はしっかりしている。
 ついさっき、SEMの話を聞こうとしたときも、心が弱っていないかどうか心配してくれた。

 会社の同僚や上司、先輩や後輩にしたって、家族のために汗水たらして働くのが当たり前のことだ。
 寿退社する女性にしても家事や育児という新たな仕事が待っている。

 それじゃあムロアキは?
 一時の快楽にしか目が行かなくて、こっちにとばっちりを寄こしてきたあいつは?

「くそ」
 
 まだ長い煙草をぐしゃっと潰してからせんべい布団に潜り込んだ。

*     *     *
 

 それから二十分ほど、ずっと時計の針の音を聞いていた。 
 
 今日に限って寝つけない。
 そういえば、今日はあまり晩酌をしていないし、早くに電気を消した。
 それに、さっきの考え事が胸の中でしつこく渦を巻いていた。

 結局、もう少しだけオンラインに接続することにした。

 『ムロアトリエ』を見るために。

 ムロアキが大麻で捕まるまで、どういう日常を送っていたのか気になった。

 久しぶりに開いた『ムロアトリエ』には閑古鳥が鳴いていた。
 高校時代、あんなに盛り上がっていたコメントスペースも、いまはまったく書き込みがない。

 更新されたテキストコンテンツにしても、大麻の影響なのか、ときどき書いてあることが分からなくなる。
 支離滅裂な、文章の迷路をたどっているかのようだ。
 
 常連たちも『ムロアトリエ』の管理人がだんだん壊れ始めた、と思ったんだろう。
 理解が追い付かなくなって、一人、また一人と離れていったに違いない。

 前日、そのまた前日、とログさかのぼっていく。
 たまにまともな文章に出会うとなぜか安心した。
 その直後には訳の分からない文章を読む羽目になって、また気分が悪くなる。

 小一時間、そうして過ごしていたころ、気になるログを見つけた。
 
 去年のものだ。

 ― 人間、知っていい幸せとよくない幸せがあるもんだ
 ― よくない幸せを知っちゃうと、あとは真っ逆さまだ

 自分の大麻中毒のことを書いているに違いなかった。
 
 不意に喜びが湧いてきた。

 あいつにも一片の理性があった。
 骨の髄まで大麻に侵されているわけではなかったんだ。

 ムロアキが更生施設から出てきたら、こっちの気が済むまでたっぷり説教してやる。
 誠一の鉄拳も飛ぶかもしれない。

 それでも、あいつが真っ当になってくれればそれでいい。
 
「頼む」

 また独り言をつぶやいた。
 
 誰に対して頼んだのだろう。

 よくわからないまま、今度こそ眠気に抗うのをやめて布団を被った。

 すきま風のせいで布団の端が凍っていた。