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【古代】崇徳上皇(1119年~1164年)

 崇徳上皇は天皇家を最も憎み、恨んで死んでいった天皇だ。その後、鎌倉時代、室町時代、江戸時代と天皇や皇族・貴族が政治から遠ざかったのも崇徳上皇の怨念だと言われている。そのため、約700年振りに天皇親政が始まると1868年、明治天皇は崇徳上皇のために白峯神宮を京都に創建し、その魂を慰めている。昭和天皇も、1964年に、崇徳天皇のお墓に勅使を派遣し、挨拶を欠かしていない。

 このように、崇徳上皇は天皇家が恐れる天皇となった。それはなぜだろう。きっかけは崇徳上皇の出生に秘密がある。

 崇徳上皇の父は鳥羽上皇とされているが、実際には祖父である白河上皇が鳥羽上皇の妃に生ませた子だったのだ。鳥羽上皇は、崇徳上皇を「叔父子」と陰で呼び、忌み嫌っていたのだ

 しかし、崇徳はその秘密を知らない。自分がなぜ、父である鳥羽上皇に嫌われているのか分からない。混乱していた。ある時、鳥羽上皇が崩御した際、その葬式に参列するため御所に入ろうとするが、「父の遺言のため」入室を拒まれてしまった。その隣を弟の後白河天皇が素通りしていったのだ。

 その後、1156年、天皇家の実権を巡って保元の乱が起きる。崇徳上皇は弟である後白河天皇と戦わざるを得ない状況に追い込まれてしまったのだ。これには摂関家の内部対立や、武士同士の対立もあった

 戦いに敗れた崇徳上皇は讃岐(香川県)に流される。崇徳上皇は、仏教を拠り所に、静かな生活を望み、弟である後白河に手紙を送る。

「私はもう、皇位を望む気持ちはさらさらない。願わくば都に戻してもらい、穏やかな暮らしがしたいと思う。流罪を解いてくれまいか?」それに対して、後白河は「太政官の決定事項につき、無理です。」と突き返した。

 しばらくして、崇徳上皇はまた手紙を書く。

「分かった。私はこの讃岐で生きていく決心をしたよ。だが、最期に一度だけ都に戻り、父の墓参りをしたいと思う。願いを聞き届けてくれまいか?」それに対して後白河は、「太政官の決定事項につき、無理です。」

 さらにしばらく経って、崇徳は手紙を書く。

「分かった。もうお前には迷惑をかけない。都に戻ろうとは思わないから、最期に一緒に納めてあるお経を父の墓前に供えてくれまいか?1週間かけて、1文字1文字心を込めて書いたお経じゃ。父の供養になると思う。」しばらくして後白河から返事が来た。手紙を読もうと、箱を開けるとそこには、ズタズタに破かれたお経が入っていた。。。

 崇徳は部屋を飛び出し、崖っぷちに来て、都の方を睨み付けながらこうつぶやいた。「日本国の大魔王となり、皇を取って民とし民を皇となさん」

 そして、自ら舌をかみ切って、果てた。その最期は目つり上がり、爪や髪が伸び、魔王のようであったという。誰でもこんな仕打ちをされたら、恨みたくもなる。崇徳上皇は何も悪くない。出生に秘密があり、訳も分からず父に疎まれ、弟になめられ、それでも謙虚に信心深く生きようとしたのに、崇徳上皇には裏切られた気持ちで一杯だったのだと思う。だから、保元の乱に敗れた人とという認識だけだとあまりにかわいそうなので、崇徳上皇について書きました。崇徳上皇自身は和歌の才能豊かな、素晴らしい人物だったそうです。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。