【小説】秀頼と家康の会見②
その男は、実に苦労人だった。鳴くまで待とうなどというのは、戯言である。三河生まれの持ち前の気性の荒さで、すぐに頭に血がのぼる性格だが、一方で、多くの経験を通して、冷静さと一種の潔さを身につけていった。そして何より、執念が凄かった。徳川家康である。
幼少期はずうっと人質として今川氏や織田家で過ごした。転機は桶狭間の戦いであった。今川義元が討たれ、人質身分から解放される。21歳で信長と同盟関係を結んだ。31歳で、武田信玄と相見えるが、完膚なきまでに叩き潰される。しかしこの経験が彼を強くした。
信長の命で、最愛の妻と嫡男を殺めたことも、有力な家臣が一向宗門徒ともに裏切りをしたことも、戦国乱世の時代に、彼を強くする大きな要素となった。信長が本能寺で斃れると、秀吉の時代となった。43歳の時、小牧長久手の戦いを仕掛け、秀吉を追い詰める。家康としてはこの先の人生を考えた時、ここが勝負所だと考えたであろう。秀吉は織田家中をまとめつつあったが、全国の大名が秀吉になびいているわけではなかった。
家康はもともと信長の同盟相手である。自分の方が格上だという自負があった。そして、戦巧者だという自信もあった。そして、確かにこの戦いで秀吉を追い詰めた。しかし、秀吉が一枚上手であった。勝てないと悟った秀吉は巧みに、和睦へと持っていった。そして、結果的に家康は秀吉に臣従する形をとることを余儀なくされたのだった。
秀吉は家康を五大老筆頭と熱く遇する一方で、非常に警戒した。東海地方に一大勢力を築いていた家康をぺんぺん草の生える江戸に追いやった。家康49歳の時である。誰もが反対したが、家康は黙って江戸に入り、土を埋め立て、水を引き一から都市建設を進めた。
そして、59歳で関ヶ原の戦いである。宿敵石田三成を降し、天下が目の前にやってきた。60歳を過ぎて征夷大将軍となり、江戸幕府の初代将軍に君臨する。人は彼を、鳴くまで待とうホトトギスと辛抱強い性格と称えるが、家康はそんなのんびりしたのんきな人間ではない。泥水を這いつくばりながら、執念深く天下を狙っていたのだ。
将軍職を息子の秀忠に譲った家康の懸念事項は、豊臣家の処遇だった。己も70歳を迎えんとしようとしている。秀吉の死が天下を大きく動かしたように、自分の死がまた乱世を引き起こす可能性はある。将来脅威となる芽は潰しておかなければならない。
しかし、これ以上の大きな争乱は民の疲弊を深刻化し、発展途上の江戸都市開発が30年遅れることにもなる。またポルトガルやオランダなどの外国勢力が日本を狙っているという情報も入ってきている。徳川が豊臣を臣下とし、大坂は京に近い故、四国などに転封して残すこともできる。
そう、家康は考えていた。
とにかく、自分は長くない。秀忠はまだ将軍としても未熟で、武家の棟梁たる器ではない。
ぐるりぐるりと脳を回転させ、思案を深める家康は、籠の中にいた。向かうは二条城。豊臣の嫡男、秀頼との会見であった。
秀頼が暗愚な将軍であればいい、そう家康は思っていた。