流れがわかる日本史④
④回目となりました。本日は、聖徳太子や蘇我馬子、推古天皇の後の時代について書きたいと思います。聖徳太子の時代についても、たくさん述べたいことがありますが、それは私の人物氏「聖徳太子」編をご覧ください。
さて、三位一体改革の時代に目指されたのは、官僚という、試験に合格したものが国政を担うという社会、官僚制国家を目指しました。それまでは氏族制社会で、大和政権の有力者の代表が重要会議に参加し、みんなで権利を主張したり、既得権益を守り合っていました。しかし、支配領域が拡大し、様々な意見を聞く必要が出てくると氏族制に限界が生じます。一部の人間だけがいい思いをする。最初はそれでもいいでしょうが、代を重ねるごとに、なぜ、あの人達ばかりが?なぜ、われわれにはないのか?我々の方が、能力もあるし、判断力もあるはずなのに!と不満が募っていきます。
そうした社会の中で、大切だったのが官僚制国家なのでした。試験に合格したものを国家官吏として働いてもらう。そして働きに応じて、出世もあるし、昇給もある。そうすることで、この日本社会をよくしていこうとしたのです。
しかし、既得権益を持っている人たちはいい気持ちがしません。当然です。彼らは大和政権の初期メンバーで、自分たちが日本を支配しているという自負があります。そんな人たちから既得権益を奪っていくには、強力な権限が必要です。そこで、登場したのが天皇でした。それまで天皇とは呼ばれず、大王と呼ばれていましたが、天皇権威を高めるために「天」上界の「皇」帝、すなわち天皇という称号が与えられます。壬申の乱に勝利した大海人皇子は、天武天皇として即位し、この頃から天皇号が使われ始めたと言われています。大海人皇子は、地方豪族を結集し、中央豪族を束ねる、甥の大友皇子との対戦に勝利し、即位しています。この戦いで、中央豪族の多くが没落することとなり、天皇の権威が相対的に高まったのです。天武天皇は、それまで地方豪族が所有していた地方の土地や、地方豪族が直接支配していた領民を天皇が直接支配する土地であり、民であることを示すため、全国的な戸籍を作成し、人民把握を行い、公地公民制を進めて、班田収授といって均等に土地を配り、生活保障を行った上で、納税の義務を課すという政策を打ち出します。こうして、天皇を中心とする全国的な徴税と徴兵を可能としたのです。
こうして国家財源を安定させ、政府所属の軍事体制を構築したのです。そして、時代は奈良時代、律令制といわれる、中国から伝わった法整備を行い、律と令に基づく法支配を進めていきます。奈良時代の政治については、また次回詳しく書いていきたいと思います。
ちなみに、天武天皇のお兄さんが天智天皇で、この天智天皇が果たした役割も非常に大きく、天智天皇と天武天皇の二人の兄弟によって、官僚制が進んだという考え方もあります。
この天智天皇の時代についても私の人物史である、「中臣鎌足」編や、「蘇我入鹿」編で詳しく書いてありますので、そちらをご覧ください。本日も、お読みいただきありがとうございました。
歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。