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言葉の「智」と「情」

このあいだ、デザインランゲージなど、言葉によらない視覚のランゲージは情報量がとてつもなく大きい、と書きました。

一方で「言葉」が伝えるのは論理だけかというと、全然そうでもないですね。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される」と『草枕』の冒頭で夏目漱石先生は書いていたが、言葉は「智」も「情」もどちらも伝える。

(感覚と感情はまったく別ものだけど、ここでは論理の「智」に対する「情」の作用として、いっしょくたに考えてみる。)

19世紀末から20世紀の間じゅう、頭のよい人たちはややもすれば「智」だけが人間の知性を構成しているかのように論を張っていたけれど、じっさいに人間を支配しているのは「情」のほうだ。

コピーライティングは「情」を動かして好感度を上げたり購買意欲を刺激するためのものだし、政治家の言葉も多くが「情」に訴えるように選ばれている。詩や小説のメタファーは、論理にはついていけない飛躍をもって新しい感覚や認識をひらく。

以前に「サピア・ウォーフの仮説」について書いたことがあったけど、「その人の使う言葉は、その人の考え方を変える(ことがある)」という説は、言葉が、論理を伝えるだけでなくて「情」を喚起するツールでもある以上、当然のことだと思える。人の行動は多くの場合、本人が気づいていなくても、感情に強く支配されているのだから。

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翻訳、とくにマーケティング関連資料の翻訳をしていると、言葉のもつ「情」の部分にとても神経を使う。

たいていの形容詞には、ネガティブまたはポジティブな色がついている。特に日本語は関係性や役割がとても重要視されるので、原文にはない忖度が必要とされる。

企業が消費者向けに出すお知らせなど、原文はいたってニュートラルで率直なものも、日本語にするときには企業側を少し低い位置において、話しかける相手に敬語をつかわないと、すごく偉そうに聞こえてしまったりする。

名詞にも気を使う。

たとえば、以前にも書いたのだが、「田舎」という言葉。英語で「rural」というのは単に「都会」の反対語で、住んでいる人の少ない地域をさす、とてもニュートラルな言葉なのだけど、それを「イナカ」という日本語にしてしまうと、原文にない何かが加わってしまう。その「何か」が「情」の部分だ。

日本の「田舎」と「都会」の関係性と、米国の「rural」/「country」と「city」の関係性はだいぶ違う。

日本ではなぜか、「都会」が偉くて「田舎」は一段下の存在というヒエラルキーが当然のこととして受け入れられている。そんなことを大声でいう人はいないけれど、それは心情として日本のカルチャーのなかに厳然とあり、絶えずギャグのネタになっている。だから日本語の「田舎」という言葉にはどうしてもうっすらとネガティブな影がついてきてしまう。

でもアメリカのruralな地域の人たちは強烈なプライドを持っていて、自分たちの地域が都会より一段下などとは絶対に認めない。だからruralにネガティブな影はないし(田舎を貶めるための表現は他にいくらでもあるが)、countryという語は、垢抜けてはいないけれど温かい真の価値を知る人びと、というくらいのモリモリにポジティブな言葉として受け止められることが多い。

当たり前のことだけど、価値観も歴史背景も生活感覚も違うところでは、「智」も「情」も、まったく違う体験を個人にもたらす。

だから言語間の翻訳には、そういう体験のギャップを埋める作業が必要になる。これだけグローバル化がすすんだ現在でさえかなりのギャップがあるのだから、明治維新後の「文明開化」の時代に西欧文化を日本語の文脈に紹介した先人たちの苦労はいかほどのものであったろうか、と思うと気が遠くなる。

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