異常な選挙とトランプ後遺症(3)
ポピュリズムの火に油を注ぐエリートの傲慢さ
ウェブ版『クーリエ・ジャポン』のインタビュー記事で、ハーバード大のマイケル・サンデル教授が、政治を変える前に「エリートたちがまず謙虚さを養うべきだ」と語っている。
(クーリエ・ジャポン「バイデンが勝っても根本的な問題は消えない」)
大統領選挙戦たけなわの2016年9月某日、ヒラリー・クリントンは支持者(コアな支持グループであるニューヨークのLGBTコミュニティだった)のファンドレイジングイベントで、うっかりこんな発言をした。
"You know, to just be grossly generalistic, you could put half of Trump’s supporters into what I call the ‘basket of deplorables.’ Right? The racist, sexist, homophobic, xenophobic, Islamophobic — you name it. And unfortunately, there are people like that, and he has lifted them up."
(ごく大雑把な言い方ですが、トランプ支持者の半分は、わたしが『デプロラブル(嘆かわしい人びと)のカゴ』と呼ぶカテゴリーに入れて良い人びとだと思います。そうですよね? レイシスト、性差別主義者、同性愛を嫌悪する人、外国人恐怖症やイスラム恐怖症の人など。残念ながらこういう人たちは存在します。トランプは、こういう人たちを持ち上げてしまったのです)
そして、残りの半分のトランプ支持者は「政府に取り残され、経済に恵まれず、誰にも顧みられることない人びと、彼らの生活や将来については誰も案じてくれず、絶望的なまでに変化を必要としている人びと」だとして、「彼らに対しては理解と共感を持つべき」と自分の支持者に向かって訴えた。
この発言が大炎上した。サンデル教授も上記のインタビューで指摘しているが、このヒラリーの発言は、もしかしたら2016年にトランプの勝利を後押しした大きな要素のひとつだったかもしれない。
自分たちがほかの人たちよりもずっと優れている、という上から目線をむき出しにしたら、その「ほかの人たち」を傷つけ怒らせるのは当然だ。ヒラリーとその支持者たち(多くは大都市やその周辺に住む高学歴高収入で情報に通じた人々)は、自分たちが完璧な善人だと信じていて、人を見下していることにまったく意識的ではなかったのじゃないかと思う。相手に嫌われて当然だ。
サンデル教授は上記のインタビューでこう語っている。
「社会の頂点に立った人は、自分が成功できたのは自分の実力だと考えがちです。実力で成功したのだから、市場社会が成功者に配分するものを受け取って当然だと考えるのです。それは置いてけぼりになった人たちは自業自得だとみなす見方にもなります」
「外国人嫌悪や超国家主義といった醜悪な感情に働きかけ、トランプの場合はそこに人種差別が追加されました。トランプなどの発言が醜いせいで、トランプなどを支持する人たちの訴えが正当だということになかなか気づけていません」
そのうえで「市民が分かち合う公共空間を作り直す」ことが必要だと訴える。「階級が異なる人や生活条件が異なる人と出会えるように」社会インフラを見直すことが必要だと。
まさにこれは先日のロードトリップの間、息子と話していたことだった。
米国は広い。広すぎて、田舎と都会、「赤い」地域と「青い」地域に住む人びとが、お互い顔を合わせる機会がほとんどない。自分の住んでいる環境にはだいたい似たような生活条件や考え方の人が集まるから、自分の「常識」の範囲を出ることがなく、遠くのまったく異なる地域に住んでいる人への想像力が育たない。SNSもこの傾向に拍車をかけている。
対話を始めるには、まず、お互いに共通の経験をもたなければならない。嫌悪や偏見(「意見」)を横に置いて、お互いが自分と同じ人間だと認めるところからしか、何も始まらない。本当に当たり前の話なのだけど、今の米国にはそれが決定的に欠けている。
なにしろ、信じている現実が違うのだから。
高校までのあいだに、国外ではなく、内陸部の「田舎」と都会の間で「交換留学」をすべきでは、というのがわたしの妄想。
費用は国の上位1%の富豪たちに出してもらおう。全国の中高生が数年に一度、まったく関わりのない土地のホストファミリーの家に滞在する。小さな町で育った子どもたちにも、都会で育った子どもたちにも、大きな収獲があるのではないか…。
今回の大統領選の泡沫候補の一人に、ラッパーで起業家で自称天才のカニエ・ウェストがいる。
カニエは去年、自分のアパレルブランド「YEEZY」(イージー)の本拠をワイオミング州のコーディという小さな町に移した。(YEEZYは市場で大成功を収めていて、今年始めにはGAPとのコラボも発表された)。
コーディというのはイエローストーン国立公園のすぐ東側にある小さな町で、カウボーイの聖地みたいな場所。もちろん人口(約9,000人)のほとんどは白人だ。わたしも前に一度行ったことがあるが、カウボーイハットとブーツを売る店ばかり並んでいて、夏の間の観光収入に頼っているのが明らかだった。
(コーディの町。2012年8月)
カニエはこの町を拠点に綿などの素材の生産からデザインから製品化まですべて行おうという壮大なビジョンを持ち、熱心なキリスト教徒としてキリスト教をベースにした学校を作るなどの構想も立てているらしい。
気が変わりやすい自称天才のことだから気長に結果を待つしかないが、コーディの人たちは、新しいお金をもたらし、雇用を生むかもしれないカニエの事業展開をおおむね好意的に見守っているようだ。
(参考:ニューヨーク・タイムズの記事:「Kayne, Out West」)
エキセントリックな起業家を待つまでもなく、こんな国内の異文化交流がもっとたくさん始まると良いのだけれど。
7日夜のバイデンの勝利演説は、今、この国がなによりも必要としている融和と癒やしに焦点を当てていた。
バイデンには本当にぜんぜんカリスマもなく、オバマのような雄弁さもないが、現在のアメリカ人に語るべきポイントに的を絞ってきちんと語っていてほっとした(もっとも、国の半分が聞く耳を持たないと思うと気持ちが沈むが)。
クリスチャンにも届くよう有名な旧約聖書の言葉を引用して「今は癒しの時」だと語りかけ、互いに「demonize(悪魔のような存在だと忌み嫌う)してはいけない」「互いを敵と呼ぶのはやめよう。私たちはみなアメリカ人なのだから」と続けた。
トランプは4年間、まさにdemonizeできる敵を支持者に提供し続けた。相手を理解しようともせずに悪魔だとみなして攻撃するのが流行した時代は終わったのだ、と思いたい。
トランプと彼が提供する「敵」への罵詈雑言に熱狂してしまう人々の姿、そしてエリートたちの無意識な傲慢さから、この国は多くを学んだはずだ。ジョージ・フロイドの殺害事件は、多くの白人たちにとってそれまで見えていなかった差別構造を切実な体験として共有する機会をもたらし、社会正義の実現を願う人々の新しいグループを生んだ。コロナ禍の1年は、多くの米国人にとって、より謙虚になり、より深く考え、より冷静に自分と社会を見つめ直す契機になったのではないか。
道は遠く長いけれど、謙虚で冷静な対話が始まることを祈ってやまない。この泥仕合を見てうんざりした10代や20代の若者たちの間から、建設的な架け橋が生まれてくるのを期待するばかりだ。
(本稿は2020年9月13日発行の「デジタルクリエイターズ」に掲載されたものです。)