小さな生き物と暮らすこと
我が家に小さな文鳥の雛が加わりました。
白文鳥の雛で、少し発育が遅れていて、甘えん坊で、ふっくらツヤツヤ、栄養満点で元気に育ってほしくて「おこめ」ちゃんという名前になりました。
脚が弱かったり、吐き戻したり、なかなか水浴びをしないおこめちゃんを心配して病院にも連れて行くと、ビタミン不足らしく点薬で補給してお陰ですっかり元気な中雛まで育ちました。
本当ならもう一人で餌を食べられているサイズなのに、まだ甘えん坊で挿し餌がやめられず、家を長時間離れることができません。
久しぶりに新しい家族を迎えて、今まで一緒に過ごした子との生活やお別れを思い出してしまいました。
2羽目の文鳥、何匹目かのペット
実は我が家は絶えず、動物と暮らし続ける家でした。
記憶に残っているところでは、幼い頃中国に住む祖母と二人で暮らしていた頃、道端でカラースプレーで色付けされたヒヨコを買ってもらい、ベランダで育てていました。
やがてその子が大きくなり、「コケコッコー」と鳴き始めた頃、夕食に出てきた丸鳥の料理を食べて餌をやりに行くと、そこに若鶏はいませんでした。
これは本当にトラウマになる記憶でした。
やがて両親に引き取られ、日本の家に来ると、そこにはメス柴犬の子犬が一匹いました。名を母の好きな果物からとり、モモとつけていました。
私が6歳の頃でした。
柴犬は賢いというけれども、ウチの子は本当に賢くて、若い頃はヤンチャだったものの、決して家では粗相をせず、外で他所の犬とも喧嘩せず、無駄に吠えることも、飼い主を困らせることも殆どなく、たまにしても「こら」と一言言うとすぐに言うことを聞く子でした。
17年間、私が23歳になるまで我が家にいてくれました。
父は雨の日も、風の日も、台風の日も、必ず朝と晩の両方、1時間ずつ散歩に連れて行ってました。
色々と問題の多い家庭だったけれども、家族が険悪な時は空気を読んで、どうすればいいのか気を遣ってくれるような柴犬でした。
私が幼い頃からいたので気が付かなかったけど、大人になってみて、ふと心底不思議な気持ちになりました。
「人間と犬はこんなに違う種類の生き物なのに、この子は言葉も話せないのに、この子は私たちの気持ちを読み取れるし、私たちもモモがどんな気分なのかわかるような気がする。これってとっても不思議だな。」
大学で一人暮らしをした私は、実家から離れて、孤独を感じ、4年の春に文鳥を1羽、雛で迎えました。
雛毛が黒く、桜文鳥として迎えた子は「ひじき」と名付けました。
とても強い子で、すぐに一人で餌を食べれるようになり、空を飛び、元気よく遊んでました。そして、大人の毛に生え変わると、真っ白な文鳥になっていました 笑
やがて大学を卒業するとともに一緒に実家に連れて帰りました。
新しく加わった文鳥を、先住のモモちゃんも受け入れ、動物好きの両親は大喜びし、お世話も遊びも率先し、私がやることがなくなるくらいでした。
賢くて可愛い生き物たちと私たち家族
実家に戻ってから1年たらずで、柴犬のモモちゃんは老衰で亡くなってしまいました。
17年を思うと、悲しみが込み上げたけど、大病もせず、随分長く生きてくれたことに少し安心もしました。
彼女は若い時から随分賢い犬でしたが、歳をとれば取るほどもっと賢くなり、最後の8年くらいは人間と暮らしているような錯覚に陥るほどでした。
そして我が家には文鳥の「ひじき」だけが残り、家族は今まで以上に猫可愛がりしたのです。
毎朝8時前にはゲージにかけられたおやすみカバーを外し、お水を替え、放鳥、その間にゲージを掃除し、沢山話しかけて遊んであげる。
寝る前にも沢山遊んであげて、沢山話しかけておやすみなさい。
毎日散歩していたモモちゃんとの時間を「ヒジキ」にかけていたお父さんに、文鳥もすっかり懐きました。
その2年後、父は病気が判明し、2ヶ月で急逝しました。
残された母と私はもちろん、「ひじき」も悲しみに暮れました。
ひじきがどう思っていたのかはわかりませんが、状況を理解したのか、今度は母親に一番懐くようになりました。
文鳥は本当にとっても賢い生き物です。犬と同じで年を重ねれば重ねるほど賢くなりました。
その頃私は一人暮らしで都内に出ていました。
父の死後、事務処理などを半年ほどかけて終わらせると、母は辛い気持ちを慰めるために実家の中国に帰ることにしました。
私はその間、ヒジキを東京の家で預かることになりました。
東京と文鳥と私
ヒジキと二人っきりで暮らすのは2度目で、雛から育てた時のことを思い出していました。その時ひじきは6歳になっており、雛の時とはもう全然違う鳥になっていて、私たちは毎日遊んでいました。
私はその時、仕事の調子がすっごく良く、ずっとやりたかった海外の仕事も少し手伝わせてもらえていました。
仕事で香港に行ったり、数ヶ月後には初めての2週間程度のアメリカ出張も控えていました。
その間、信頼できる動物病院で預かってもらう算段で、出張1週間前になり、ヒジキを放鳥して一緒に遊んでいると「ヒューヒュー」という音で呼吸しているのに気がつき、これってどういうこと?と様子を見ると
嘴の色も、脚の色もどんどん血色が失われて、明らかに様子が変でした。
今にも死んでしまう、そう思い、翌朝一番で実家近くの病院に連れて行こう、辛そうなヒジキは一生懸命私に身を寄せ、私は手のひらで温めるように一晩中握っていました。もし死んだとしても、私の手の中で逝って欲しい、離したくないと思ったのです。
翌日病院に行き、即入院となり、出張前日まで往復2時間以上かかる距離で毎日様子を見に行きました。
多分もう長くないだろう、本当は、そんなヒジキを病院に置いて出張に行くのは嫌だったけど、キャンセルすることもできず、毎日先生にメールで様子を教えてもらいながらロサンゼルスに立ちました。
途中回復したような連絡もあり、喜んでいましたが、帰国2日前に「様子がおかしい、覚悟したほうがいい」と連絡がきて、出張最終日に亡くなった連絡が来ました。
帰国後、家に着き一眠りした後、荷造りもせずにまずヒジキを迎えに行きました。冷たくて、硬くなったヒジキは、たまに道路に落ちてる鳥の死体とあまり変わらない形相になっていて、あんなに柔らかくて暖かかったのにと、涙が止まらなくなりました。
あんなに小さな、たった25gの3,500円で買ってきた文鳥を、こんなにも大切に愛していたのかと自分でもビックリしました。
私を待っていただろうに、間に合わなくて、本当にごめんね。
もう2度と、文鳥は飼わない、弱すぎる、辛すぎる、と母と話をしました。
2羽目の文鳥、そして母と父を想う
あれから4年、30歳になり、同棲している彼氏も動物好きということで、私から話を聞いていた彼が「文鳥を飼ってみたい」と言い出しました。
私はヒジキを幸せにしてあげられただろうか、それなのに新しい子を迎えていいのだろうか。
そんな私を横目に、とりあえず様子を見に行くと雛の可愛さに彼氏がやられ、結局おこめを迎えてしまった。
久々の挿し餌、ヒジキよりよっぽど体が弱く、世話も心配も大変で
何かがあればすぐにヒジキが硬くなった時を思い出して、心がザワつきました。
元気に育っていると、もっと遊んであげるべきなんじゃないか、もっとお世話をすべきなんじゃないかと不安になる。この子は、寿命を全うすることができればあと6~10年くらい一緒に暮らす家族になるのだ。
私は当たり前のように動物と暮らす家庭に育ったのですが、両親は毎日、淡々と散歩に行ったり、餌や水を替えたり、掃除をしたり遊んであげる人たちで、毎日必ずやっており、怠ることはけしてなかったことを思い出し、それは当たり前のことではなかったことを改めて思いました。
賢くて、愛情深くて、小さくて弱い生き物と暮らして、心を通いあわせて
この子たちの幸せは私たち次第で、柴犬のモモちゃんをしっかり送り出せたのは、両親ができることを全部やったからだったことも思い出しました。
おこめとの暮らしを通して、生き物と暮らすっていうのは、本当に幸せで辛いことなのだと久々に思い出し、そして両親のように、愛情いっぱい注げるような人間になりたいとも思った。
亡き父も沢山思い出しちゃうね。
こんなお家に来てくれたおこめさんには、幸せいっぱいな日々を過ごさせてあげなくっちゃいけないね、と改めて思うのでした。
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