感情は時計の針のように動いてるわけじゃない
思い返してみればいつだって私は、私を追いかけていた。
私はどうして私が世界に存在するのか、ずっとわからないでいた。それは真夜中にひとりで物思いに耽るような、どこか静謐で孤独なときの感情に似ていた。ゴールのない迷路をあてもなくさまよっているようだった。私が私をみつけようとするたびに、私は私から逃げていく。掴もうとすれば手から滑り落ちて、離そうとしたら近づいてくるような──。
生きるということは、他者と、社会と関係をもつということである。私ひとりでは私にとってなにが大切で価値をもつのかは決められない。他者・社会がなにを大切にして、なにに価値を置いているのかを知って初めて私は私にとって価値があると思えるものがわかるのだと思う。他者・社会が価値を認めているものに私も価値を感じることももちろんあるだろうし、私はそうではないと思うこともある。私という存在は、トンネルを抜けるようにさまざまな価値観・倫理観に触れて相対化されてできている。
私にとっての私を定義するのは難しい。これが私だと思えたことが、時を経たら簡単に捨ててしまえることもある。反対に、以前私が価値を感じてなかったものに時間を置いたら惹かれることもある。時の重みを受けてなお変わらない感情もある。感情は時計の針のように動いているわけではないから。宗教のように組織的なものではなくても、私は私の価値を感じるものを信じている。それはささやかだけれど、手のひらサイズだけれど、私が他者・社会と関係をもつ前提としてなくてはならないものだ。他者・社会の価値観・倫理観は簡単に私を私ではないなにかに変えてしまう力を持っているから。私は、私のささやかな価値観を握りしめて。