特養からの「鶴の一声」は誰のためか。ブラッシュアップからのアップデート
※特養で働かれている全ての人を否定することではなく、また特養へ入所をすすめる介護職員を否定しているわけではありません。ひとつの考えとして特養への入所待ち→空きが出た→入所する。この一連の流れでショートステイの介護職員が思ったこと、前回書いたものをもう少し深掘りして書いています。内容は個人的な意見です。
最後は「特養」この流れを変えたい。
大事なことなので何度も話すが特養が悪い、特養に入れることが悪いではない。本人がここにたいなと思っていても天災の如く突然の知らせ「空きました」の鶴の一声。そこから準備が進み本人の意思がないまますすめる会議、契約、、、、これは幸せか。だれが幸せか?
特養に移るが、もしおばあちゃんは90歳を越えていたら…
そこから生活の場を移すってどうなんだろう。
もちろん、願ったところに行く( 例:自宅に戻る。家族旅行に行く)なら全然良いが「ん?どこ?ここ?」のよくわかってない状態で車に乗り、たまのドライブかと思えば自宅ではないどこか小綺麗な場所に到着する。見たことあるようなないような、じいちゃん・ばあちゃんたちを横目にみると、そのまわりをセカセカと職員が動いている広めな空間・・・・「はて?ここはどこだろう?」
ホテルや旅館のような一時的な空間ではない。
死ぬまでそこにいる。終いの棲家
似たようで違う環境。いちから覚える職員や隣の人の顔と名前
このおばあちゃんにとってその選択は幸せか?
一緒にいて「ちょっとどうかな?」と思っていることを「特養待ち」の鶴の一声は容易にやる。そこに対して口を挟める信頼関係っていつどんなタイミングでできるのだろう・・・(必ず挟むではなく)
「特養だけど、ちょっと待ってもらってもいいですか」
「お母様がここにいたいとお話していて」
「今、このタイミングで行ってしまったらこうなるかも」
端から見たら施設側のエゴかもしれない。
けど、その人を思う気持ちには変わりない。
偏愛で良い。ただ、しっかりと話せる場と関係が必要だ。
目の前にいる、じいちゃん・ばあちゃんだけでなく
家族ともどう関係性を築いていくか。信頼を勝ち取るか
結果、目の前にいるじいちゃん・ばあちゃんの最良につながる。
そんな気がする。
介護職員だけで全ての信頼関係を勝ち取るのは不可能だ。
施設の外と繋がる時は主に相談員、事務員。
ゴーサインを出す管理者、施設長。
チームが一丸となって動いていくために何をどうしていくか
多分、資格取得やコミュニケーション研修、事例検討会、著名人の講演会を聞いてもチームはまとまらないであろう。
同じ方向を向くには「共有して思い動ける何か」が必要だ。
ぼくらの場合は目の前にいる。偉大な先駆者。
じいちゃん・ばあちゃんがどうしたいかを一生懸命に見て、聞いて、触って、泣いて、怒られて、一緒に笑える経験を小さくても良いから毎日、積み重ねること。なんじゃないかな〜と思って今日も仕事します。