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いつから自分の「制約」が他人に行くのか

どこかに出かけたいときに、制約があって「それはできない」ってなるのかな?
しかもその制約は自分じゃなくて他の誰かが課したもの。

「でかけたい」「ダメです」「でかけたい」「ダメです」
これってそもそも言語がちがう話。

外に出たいおばあちゃんと、出さない職員。
方向が違う方を見ている。どうにかできるのはこちら側。
なんでもっと頭と心を使わないんだろう。
小手先だけの安心を与えてしまうんだろう。
自分はその場にいてもそっち側じゃないから…

出さない職員と書いたけど
出せない職員でもある。出てもらいたいけど、家族が・・・
いつからその人の意志は「家族」に委ねられてしまっているの?

「認知症」って3文字が意思決定ができないってことになるのか。
なんで同じ方向を見ようとしないのか…
できないのか、やってみてだめだったのか。見ようとしないのか。
それぞれに理由はある。その理由を解決しようとしたことはあるか。
「それならこうすればいいんじゃないの?」

「うちに帰れば絶対施設に戻んなくなる」
そうだろうか。それはそっちの考えじゃないんだろうか。

たしかに仕事をして帰ってお母さんのお世話もしては疲れる。大変だ。
だけど、だけどってあえて言いたい。それでいいんだろうか。
他に選択肢ってないんだろうか?

例えば「帰る」は帰るだけど「泊まる」じゃなく「過ごす」なら
外泊でなく、外出ならどうなの?
お昼ご飯だけよく家族で行ったところに行ってお茶して家帰ってお父さんに線香あげて施設に戻る。これはダメなの?

施設側は何ができるんだろう
熱弁は大切で必須だ。だが熱く語ったところで理解が100%にはならない。同じぐらい「わかりやすく」「つたえる」ことが大切だ。
そのために日々、勉強してるか。学ぶ時間を作っているか。
介護職員=介護技術なんて、いつの時代にことだ。
介護職員=話し方、聞き方、提案の仕方、まとめ方、、、物事を前に動かす力が必要だ。

同じ業界だけの勉強をしててもダメだ。雑多に広く情報を体に入れる必要だ。1つの情報だけ延々と追っていてもダメだ。隣の青い芝生を見に行く必要がある。「介護はダメだ」という前に「じゃあ他はどうなってるんだろう」とのぞいて見たことはあるか。一見無駄のようなことができるか?その時間があるか?無駄をするために無駄を洗い出せ。無駄なことをしてないか?無駄なこと=無駄な残業をしてないか?自分の仕事って無駄なことあるのか?って考えたことはあるか?「この時間にこの仕事やる意味ある」って考えたとはあるか?「この仕事を今、やる意味は?」ある考えとない考え両方考えたことはあるか。業務を変れば?と思ったことはあるか。既存のものを壊す勇気があるか。壊す責任を持てるか。

なんでも1人でやろうとしてないか?自分のできることは今どれくらいか?体力は?頭は?情報は?何かについて長けている友人はいるか。その友人にどう話したら物事が進むか考えたことはあるか?試しに紙にかいたことはるか?くしゃくしゃにする前に何度も書き直したことはあるか。赤ペンで書いた文字がなくなった経験はあるか。

全ては、目の前におばあちゃんに真剣に向き合うため。
そのために投資を惜しまずできているか。


「・・・・・・・」すぐに答えが出せない自分がそこにいる。


ありがとうございます! おいしいものを食べて、エネルギーにします!!