【読書記録】心の青あざ
フランソワーズ・サガンの小説を初めて読んだのは大学生の頃、二十歳前だったように思う。『悲しみよ こんにちは』を読み、私はそこに描かれている「少女」に驚いた。あまりにも「その通り」だったので。『悲しみよ こんにちは』で、サガンは「少女」と言う生き物の持つ潔癖性、純真さ、悲劇性(悲劇を好むところ)、それらが不運にも強烈にあらわれた時に生まれる実際の「悲劇」について書いたように思う。あの小説は主人公が「少女」でなければ生まれなかったし、主人公が「少女」であるからこそのストーリーだった。私はこの世で最強なのは女子高生(その年齢の女の子たち)だと前から思っているけれども、『悲しみよ こんにちは』でサガンが描いていたのは、良くも悪くも「最強な」女の子だった。私はサガンの小説の中で『悲しみよ こんにちは』が一番好きだ。(ただし、小説以外の本も含めるのなら、彼女のインタビュー集『愛と同じくらい孤独』が一番好きだ。)
『悲しみよ こんにちは』と『愛と同じくらい孤独』と言う素晴らしい二冊を読んだ後、私は何冊かサガンの小説を読んだ。でも、上記の二冊以外はどれも似たような印象で、読み終えた後はあまり内容が頭に残らない。正直、何の本を読んだかも忘れてしまっている。それでも古本屋さんでサガンの文庫本が売られているのを見付けると(それは大抵、店先の「100円コーナー」にあるのだが)、私はタイトルもあまり見ずに買ってしまう。そして読む。そして(サガンには申し訳ないけれども)忘れる。それでもまた買って読むのはどうしてだろう。と考えながら、この『心の青あざ』も読んだ。そして思ったのは恐らく、私はサガンの小説が好きなのだろうと言うことだった。似たような話、似たような登場人物、特に美しいと言う訳でもない文章(これは翻訳の問題もあるのかもしれないけれども、私はサガンの文章に特別美しさを感じたことはない)。でも、好きなのだ。それはもしかしたらその物語を書いている、何かを語ることを出来るだけ拒否しているサガン自身に惹かれるのかもしれない。実際、私は彼女のインタビュー集『愛と同じくらい孤独』が好きなのだから。
『心の青あざ』は、物語と、それを書いているサガン自身の独白とで構成されていて、異なる世界線だと思われていたその二つが最後、同じ一つの世界になって終わる。サガンの独白は正直、内容が分かりにくくて、それは恐らく彼女自身が直接的に書くと言うよりは、彼女の慎重さによって周りくどく、皮肉と冗談とを混ぜ込みながら書いているからで、何について書いているのか、何が言いたいのか、読み取るのが難しい箇所が幾つかあった。勿論、私の読解力の低さもあると思う。だからか、シンプルな(サガンの小説は、ストーリーはどれもシンプルだと思う)物語の部分は読みやすく、主人公の兄妹のシンプルさが妙に心地良く感じられた。私は読書以外には(もしかしたら読書すらも)興味のない妹のエレオノールが好きだと思う。それ以外は、(サガンも独白部分で自分で書いているけれども)いつものサガンの小説だった。しばらくすれば忘れるかもしれない。ただ、この小説は彼女の小説『スウェーデンの城』の続きらしいので、『スウェーデンの城』を一度読まなければいけない。それまでは忘れずに覚えていようと思う。
私が案じるのは増加する懊悩ではない。懊悩は昔からいつの時代にも存在したものであって、古代ギリシャ人は、その最も美貌で、充たされた、博学の人たちが、その美しい国の全盛時代に世界で一番美しい浜辺に行って髪をかきむしり、時には砂の上で四つんばいになり、恐怖に爪を噛んだ。私が心配なのは、そういう人たちにとって、理解ある一人の医者と処方箋が一枚あれば事足りるということなのだ。六千、あるいは一万八千個の容器の一個で、十分のうちに鎮静されるということなのだ。とくに、とくに私が心配なのは、砂浜に行ってもだえるということすらしないという考えなのだ。(p.102)
上の引用は、恐らく私がサガンに惹かれる理由の一つだと思う。
この場合、他者の意見は岩に遊ぶしぶきのように無駄なもので、それによって自分を磨りへらすことはない。自分を磨りへらすものは波である。波とは、鏡の中で何千回となくだしぬけに直面する自分の反映だ。自分の反映は、かの高名な他者の目の中ではあまりにも多くの場合感動的な反映として漂っているが、実際ははるかに純粋ではるかに厳しいものなのだ。(p.122)
《お聞きなさい、善人たちよ、よくお聞きなさい。もうじき車の事故で何パーセント、喉頭癌で何パーセント、アルコールで何パーセント、哀れな老いで何パーセントが死にますよ。念を押しますが、雑誌などで事前に充分知らせておいたはずですよ》ただ私にとって、この諺は誤りであり、事前に知らせることは癒すことではないと思う。私はその反対であると思う。《お聞きなさい、善人たちよ、お聞きなさい。私を信じなさい。皆さんのうちの何パーセントが偉大な恋をするでしょう、何パーセントが自分の人生を理解し、何パーセントが他人を救助することができ、何パーセントが死にます(もちろん百パーセントが死ぬのだけれど)、ですが枕もとで誰かの眼ざしと涙に守られて死ぬのはこのうちの何パーセントです》これこそ、現世とこの惨めな人生に生の歓びをもたらしてくれるものなのだ。(p.126)
この本を著述する過程で私が想像力の擁護をしたのは、もちろん次のような理由からであった。すなわち、幸福、不幸、無頓着さ、生きる歓びなどは全く健康な要素であって、人はそれを要求する権利があり、それは決して多すぎることはないが、それは人を盲目にさせるということである。(p.156)
サガン 朝吹登水子訳 心の青あざ 新潮文庫 1975