「答えがある」授業には意味がない?
「答えがない課題に取り組もう!」
こうした掛け声や実践は、「探究的な学びの推進」とか「教科の学びを探究に」といった「これからの学びのあるべき姿」として推し進められています。
OECDが2015年からすすめてきた「Future of Education and Skills 2030 プロジェクト(Education 2030プロジェクト)」は、世界規模でのこうした動きです。現在の高校2年生の学びも、Education 2030プロジェクトと深い関係がある学習指導要領の理念とカリキュラムと各教科の目標のもとに実施されています。
わたし自身は上記のような学びは好きなので、どんどん取り組むべきだと思い、自分自身も取り組んでいます。ただし、こうした動きって「やること」が目的化しがちなので、どんな意義や効果があるのかも丁寧に検証すべきだと思います。
その上でですが、「答えがある学び」も大事だと考えています。
例えば今年度の高3現代文の最初は、魯迅の「藤野先生」からはじめています。後で「アルプスの少女」(石川淳)と関連付けて読む予定です。
この2つの小説を教材とした単元では、「受験学力」の向上がメインで、ちょい探究的な学びをプラスして授業をデザインしています。
「受験学力」というのは、共通テストがどんなゲームであるのか、そのルールと攻略方法を知り攻略スキルを磨くことです。例えば、「小説が読めるスキル」とは因果関係を捉えられることがそのスキルの一部なので、因果関係を捉える訓練を本文を用いてやっていきます。
「藤野先生」の「私」は、清国留学生に対して「若い女性みたい」「色気は満点」と評します。それはなぜか?と因果関係を問うていく、といったことです。
こうした授業は、「答えがある」もので、それをすることに意味があるのか?と問われることの多い方法です。ですが、私は意味があると考えます。比喩で言うと「知っていることとやったことがあることの間には大きな差がある」からです。
先ほどあげた「色気は満点」は明らかに悪い評価です。それはどうしてか?と問い、生徒の皆さんに考えてもらったり話し合ってもらいます。その経験が「やったことがある」になります。ここで解説してはダメです。それでは「知っている」ことの範囲をでないからです。
問いを持って自分の考えを言語化し、それがさらに問われるという経験が「やったことがある」になります。
だから、「当時は男尊女卑だからね フフン」とか教師が威張って言ったらダメなのです。
あるいは、「梅沢富美男さんっていう、おっちゃん知ってる?あの人は有名な女形で女形って伝統芸能なんだけど、それはどうなんだろう?」と少し探究に誘っても良いですね。問いを立てて考えて言語化しますから。
あるいは、辮髪と現代ファッションの決定的な違い、について考えてもらっても良い訳です。ちょっとwebで調べて。1人1台端末持ってますし。
この、問いを持って考え言語化し問い直したり問い直されたりする、という経験ができれば、それが「答えのある問い」であっても生徒の皆さんが自らの思考と言語力を鍛えて他の作品や場面に転用できる力を向上できたり、知識を得たりできます。
これが私の考える「やったことがある」です。スポーツがわかりやすいと思うのですが、野球を知っているのと、やったことがあるのとでは、野球についての理解の深さや広さが違いますし、目まぐるしく推移する野球のプレーに対応する、プレーする能力にも大きな差があります。
自分の授業は「知っている人」しか作らないのではないか?という重い問いを、私自身、常に頭の上にぶら下げています。