死にたい程の欲望を捨てた
「和くん、また塾大変なんでしょう?」
「最近塾から帰るのもう9時とかになるで」
祖母と2歳下の従兄弟の会話だった。
「え、まだ3年生やのに塾行ってんの?」そう聞いた。
「受験するんやろ?」母が答えた
「中学受験ってこんな時期から勉強するん?」
「まあ、灘やからな」
いとこは数学の天才児だった。
「ふーーーん」私は内心嫉妬で燃えていた。私は勉強は苦手ではなかったが特別天才と呼ばべるような教科はなかった。
「いーなー、賢くて」
「柚子ちゃんも絵とか美術がすごいやんか、先生も想像力がすごいって言ってたで」
「勉強の話やって、うちなんも得意な教科ないもん」
「なんでうちは天才じゃないんやろ、同じおじいちゃんやのに。」「なんで受け継がれてないんやろ」
「絵もおじいちゃんからの遺伝やで。おじいちゃん、絵も凄いやろ?」
「そやけどさ、絵だって天才って程じゃないもん」
祖父は東大卒の某有名大学の名誉教授だった。
幼いながら祖父がとてもすごい人であること、従兄弟が特別な才能を持っていることを認識していた。
従兄弟家族はみんなうちと違って意識が高そうな雰囲気がしていたし、いつも祖父と何年も先の数学の問題を解いて円周率を覚えたりしているのを見ていた。
私が祖父と遊んでもらう時は、散歩をしたり一緒に絵を描いたり、塀のペンキを塗り直したり。従兄弟と構ってもらい方が違うと思っていた。愛されてるのは、充分わかっていた。
でも小さな頃から自分に自信がなかった私は勉強を教えてくれようとしないのは私に期待をしていないからなのではと薄々思っていた。
「うちにもいい中学行って欲しい?」
母に聞いた
「別に?それに今からやと間に合わんやろ」
その言葉は私の自尊心を傷つけた。母なりに私を愛しているからの言葉だとは分かっている。
しかし、「期待をされていない」「無理だと言われた」小学生5年生の私はそう捉えた。
幼稚園の頃からくるくるの髪をからかわれたり、近所の同級生達に「ブス」「ウニみたい笑」と日常的に言われていた私は絶対的に自信が持てるものを探していた。手放しに褒められる才能が欲しかった。美術や想像力を褒められたってなんの足しにもならなかった。
5年生の途中から従兄弟に負けたくなくて勉強を頑張り始めた。塾に通わせてもらった。しかし、田舎の小学校で中学受験する子なんてほとんど居なかったため、そのまま私は公立の中学に進学した。
日本一の私立中を目指す従兄弟と地元の公立中学に通う自分を比べてまた嫉妬を大きくした。
でも絶対に高校はいい所に行きたかった。だから定期テストも頑張ってまずは五教科400点を目指した。特に数学は少しでも追いつきたくて88点以上を3年間キープした。
でも中学2年夏に
「はあ、はあ、、待って歩けへん、、ふらふらする、倒れそうや」
「無理や、起きれへん。ずうっ眠いし起き上がれん」
体位性頻脈症候群になった。起立性調節障害の一つだ。自律神経異常からなる病気で思春期に多い。立ち上がる度に脈が早くなり常に熱中症のような症状に見舞われた。
中学2年の二学期から私は学校に通えなくなった。1日中体が動かなかった。
「どうしようもうすぐ3年になってまう、本当は2年からでも受験勉強始めなあかんのに」「学校で今なんの勉強やってるかもわからんしどうしたらいいの」
体が多少動くようになる夕方からは塾に行き数学だけは勉強していたが他は完全に置いてきぼりだった。
そんな中、従兄弟が数学オリンピックで上位に入ったことを年賀状で知った。動悸がした。嫉妬心が燃え上がりすぎると、焦りを超えて恐怖になる。
3年になっても症状は良くならなかった。でも従兄弟に追いつく目標を私は捨てられなかった。毎日泣きながら無理やり身体を引っ張り学校へ行き、2年生の勉強の穴埋めと並行して偏差値68の高校を目指して受験勉強を始めた。
県で1番の高校は偏差値72だった。
選んだ高校は県で2番目、偏差値68なんかじゃ従兄弟には敵わない。
でも1番の高校は選ばなかった、選べなかった。気づいていたから、どれだけ必死に勉強しても私には限界があるって。
塾は週五で通わせてもらい、寝る時以外は食べる時もお風呂に入る時も常に泣きながら勉強した。
苦手だった英語を克服して、得意教科に変えた。90点台をキープした。着実に成績は上がって行った。でも私の嫉妬心は消えなかった。98点を取ったテストを父に見せても
「すごいなぁ、さすがあのお義父さんの孫や」それは私にとって禁句だった。私は祖父の才能を受け継いでるわけない、これは私の努力の結果なのに
母に見せても
「そっかー、よかったやん。頑張ってるもんな」もっと自分の事のように喜んで欲しかった。私がプレッシャーを感じてしまうくらいに喜んで欲しかった。
そして第1志望に落ちた。
「え、、、、どうしよう。だめだった?滑り止めに行くの?」
私は愚かなことに退路を経つため滑り止めを偏差値54程度の実力より下の高校にしていた。
心当たりはあった。学力もA判定は貰っていたが元々不安定な状態で勉強していたのだ、その時の問題と相性が悪かったのかもしれない。2年生の時の内申は確実に周りより良くなかったし。中間と期末で平均90点取れていたら5をくれると言った数学教師が平均90点を取ったのに4を付けてきたし。
もう何にどんな感情をぶつければいいか分からなかった。死にたくなった。
うつになった。正確に言えば幼い頃からうつだったのかもしれない。感受性が強く、小さなことに気を揉んで自分に自信がないのは本当に幼い頃からだったから。
2校受けた滑り止めのうち、特待生合格し学費半額免除を貰ったお嬢様学校に進学した。お嬢様学校と言っても偏差値は54だし数学より英語特化だし、何より山奥にあって起立性調節障害が治ってなかった自分にとっては通い続けることが精神的にも体力的にも不可能だった。
「お願いやめさせて、無理通えない。しんどい気持ちも身体も。森高に行きたかったのに今の高校みんな勉強やる気なくて、授業中断するし」「うちの努力は全部無駄やったんやからこれ以上頑張ったって無駄や、死にたい人が学校なんか行ってもしょうがないやろ」
毎日母に泣きついていた。
そしてじゃあ「通信にしよう」と提案された。
コロナでオンライン授業が多くあまりクラスメイトとも知り合わなかったのもあって私はたった3ヶ月でその高校を辞め通信制高校に移った。
2年生まではうつの治療をしながら引きこもり生活を送った。何も勉強せずただ消えたい死にたいでもこんな自分のままでいるのは許せないといつも考えていた
。「死にたい」と同じくらい「死んで欲しい」もよく言う口癖だった。今までの人生で私を傷付けた人や成績を正しく付けなかった教師、自分と違い楽しそうに高校生活を送る同級生、全員私と一緒に死んでくれればいいのにって。夜更かしして見える星空に隕石が降ってきて世界と心中できてしまえたらいいのにといつも妄想していた。
でも実際には行動に移せなかった。このまま生き続けるのと同じくらい、このままで終わるのも許せなかった。
3年生になりやっと効果のある抗うつ剤に出会えた。
「折角進学コースに居るんやし、夢を見つけて賢いと所とはいかんでもどこかに進学したい」
私は大学受験することを決めた。もう従兄弟に追いつくことは諦めた。人生の大半を掛けてきた目標を捨てることは怖かったけど、それ以上にこれ以上従兄弟を追いかけ続けて自分が壊れるのが怖かった。
どんな職業が合っていると思うか沢山考えた。親戚や通信の先生に相談し養護教諭になることを決めた。
起立性調節障害で通学に苦労し、うつ病を経験した自分はきっと未来の子供たちの気持ちをわかってあげられる。そう気づいたから。
志望理由書を書き、面接の練習、小論文の練習。また、公募受験が落ちた時のために英語と国語の勉強をした。
そんな中、公募の結果発表2日前に乳がんが発覚した。胸にしこりをみつけ「一応見てもらおう」と行っていた病院で結果が出た。ショック だとは思わなかったはずだった。でも脳は負担を感じていたようで私が壊れないように感情を閉じた。
無事に公募は受かり、人生で初めて報われた気がした。
でも何故かこの辺りから自分が現実を生きている感覚が無くなっていた。ずっと夢の中にいるようなゲームのアバターになったような感覚だった。
高校になってから通っていたカウンセラーの先生に相談した。
「離人症かな、解離性障害の一種だね」
「また、病気」
「病気という障害だね、いつもの先生に頓服を出してもらった方がいいかも」
また死にたくなった。でも死ぬ理由がない、やっと手に入れた幸せになれる可能性。入学までに離人症を回復させ幸せな大学生活を送らなくては。
まだ、うつ病や人間不信、社交不安は治ってなかったけど大学からきっとやり直してみせると誓った。
そして大学のために東京で一人暮らしを始めた。
抗がん剤と大学を両立しながらの生活は辛かった。
でもここで出来た友達はみんなさ優しかった。人とは裏切り、傷付けてくるものだと思っていたのに。髪をウィッグにしたり、化粧を覚えたりして見た目が変わったからだろうか。周りも大学生になって大人になったからだろうか。関東だからだろうか。
なんでもいいでも確実に言えるのは、追いかけ続けていると死にたくなるような夢は捨てるべきだということ。叶えるためなら死んでもいい、叶わないなら死んだ方がマシだと思う夢は夢じゃない、呪いだと。
従兄弟に追いつけない未来なんて想像もしたくなかったし、従兄弟への嫉妬が無くなる日が来るなんて思ってなかった。そして、こんな平和な生活が待っているとは想像もしていなかった。