もちとバッハ
岩手への旅行から帰り、久しぶりに夫の顔を見ると、新種のナッツに顔が付いてるみたいだな、と思った。夫は小柄な坊主で、夏テニスで日焼けした様を、うずらの煮卵に似ているなと思っていたが、この一週間の間に日焼けが落ち着いたのだろう。外国から入って来てまだよく知られていない名のナッツ、という感じがした。スーパーフードとしてキヌアやコンブチャが入って来た頃のことをイメージして欲しい。
「なんか知らんナッツに顔が付いた感じになったね」と告げると、私の白くぷよぷよした二の腕を見て、「なんか知らん餅が!」と言い返してきた。「ナッツ」「もち」と互いを貶め合ったのち、長らくH&M(ハゲ&メガネ)だったコンビ名がM&N(もち&ナッツ)に改められることとなった。
話は変わるが、私はここ数年、長野は大町の銘菓「雷鳥の里」の中のシートを収集している。その裏には、「また会いにきてね 雷鳥より」「雷鳥のこと、かわいいって言ってくれてありがと」など、平和なメッセージが書いてある(自分で書いてるだけ)。
一週間ぶりのリビングテーブルの上にあった雷鳥シートをふと裏返すと、「こんどいつ来る?」と書いてあった。いつもは穏やかな雷鳥に似つかわしくない圧だ。「ど、どうしよう。。しばらく長野行ってなかったから。。雷鳥さん、怒ってるみたい。。」と呟くと、「あんたが1週間前に書いたんや!」と叱られた。「そうやってなんか知らんもちが勝手に恐れをつくり出しとるんや!ただのなんか知らんもちのくせに!」お釈迦さまの説く真理のようなことを言う。一週間の間に成長したものだ。
日曜日、珍しく緊張するピアノの本番があった。普段あまり緊張しない私でも、バッハのゆっくりした曲は恐ろしい。途中からどんどん意味が分からなくなり、ドレミも、今弾いている楽器が何かも、最終的には自分が誰かも分からなくなる呪いのような圧が背後から迫ってくるのだ。怖い。なぜ苦手な平均律なんて選んでしまったのか(2巻の4番プレリュード)。
ステージ裏で待機しているうちに、だんだん恐怖が増して来た。もう帰りたい。暗譜落ちしそうな部分を確かめようとバッグを見たら、なんと楽譜がなかった。心の師、エルバシャさんの楽譜をお守りに持って行こうと取り出した際に、肝心の方を忘れてしまったらしい。かなり動揺したが、どうしようもなく、アブデルの彫りの深い横顔を見つめるほかなかった。
縦線の入ったちびまる子ちゃんのような顔で迎えた本番、私はなんとかやり終えた。途中、何度も危ない局面があったが、もちのことを思い出し、なんとか粘った。目を閉じて曲に入り込んでいるように見えたかも知れないが、「私は••なんか知らんもち••」と言い聞かせていただけだ。恐れは凡夫の作り出した幻想。暗譜が不安だった部分はやはり落ちた。が、どうにかごまかした。
もちでバッハは乗り切れることも稀にあることを学んだ私は、この夏少し成長したように思う。