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イザイの絆 クライスラー・ラフマニノフ・エネスクとともに

お茶席ではお道具やお菓子の取り合わせでお客さんをおもてなしする。私もお菓子の季節くらいなら分かるけれど、お道具の作者や、お軸に由来する歴史などを知る人にだけ伝わるような、隠されたメッセージなんかには、まだ到底気付くことができない。

音楽コンサートのプログラムにも、同じようなとりあわせの妙がある。昨日(サントリー小ホール)と一昨日(武蔵野文化会館小ホール)のエルバシャさんと戸田弥生さんのコンサートは、ベルギーのイザイというヴァイオリニストを中心として、同時代に生きて曲を献呈し合ったり、デュオを組んだりした作曲家達を集めた。彼らが生きたのは、ヨーロッパがきな臭くなり、次第に第一次世界大戦に繋がっていく時代である。私は武蔵野もサントリーも両方聴いた。

イザイは初めて聴いたが、戸田弥生さんの演奏は、技術、表現、迫力全てにおいてパーフェクト。無骨と言ってもいいくらいの勇ましさは、個人の感情レベルを超えて、民族と、人間そのものの良心、正義といったものに繋がっているようだった。曲としても聴きやすく魅力があり、一緒に行った夫も心打たれていた。

エルバシャさんの水面に投影される変化し続ける光のような音は、武蔵野文化会館小ホールで聴くのが一番だ。土の香りがするような低音の響きは、ベートーヴェンやショパンとは違う、ラフマニノフならではの響き。

プログラムの中盤に置かれたラフマニノフのピアノソロによって、当時の空気を今の世界情勢に重ね合わせざるを得ない。
当時も今と同様に、皆がおかしいおかしいと思いながら、全員が行きたくない方に流れて行くのを止められない、という思いでいたに違いない。その頃の作曲家たちも、互いに尊敬しあい、刺激を受け合ったりしながら、新しい音楽とはなにか、音楽に何ができるのかということをしきりに話し合ったのだろう。お天気の話題や、何でもない内輪のニュースや生活の愚痴なんかとともに。

私たちはそんな肉声を直に聴くことはできず、残された楽譜や手紙等から、想像するしかない。

たまたま読み始めたいとうせいこうさんの「想像ラジオ」を眺めながら、こんな風に精度高く想像できるといいのにな、と考える。

アンコールのエルバシャさん作のノクターンは、25年前に二人で武蔵野文化会館で演奏した頃以来の作品だそう。音楽と、人生を取り巻く魔法。

終演後のサイン会ではすっかり顔を覚えてもらって、今やっているシューマンのピアノ・トリオの楽譜におふたりのサインをもらった。エルバシャさんは「これは僕のとても好きなレパートリーだよ」と言ってくれました。これで頑張れる気がする。サントリーではお着物も褒めてもらえたよ!