卒論を通して「生きる」ことに向き合って
卒論を書き上げた。
それは、「生きる」ことの探究そのものだった。
それは、卒論の主題が「『生きる』ことの探究が生まれる学習活動の構造」だったから、というのも大きいと思う。
「生きる」ということを卒論のテーマに扱おうと思ったきっかけは、学校での総合的な学習の時間に対する疑問でした。
そもそも「いきる」ということは、「はたらく」とか「まなぶ」ということの前にあるはずのこと。大多数の人々は、生きるためにはたらくのであり、生きるためにまなぶ。はたらくためや、まなぶために、生きるのではない。(そういう人も中にはいるかもしれないけれど。)
この点について実際に、学校の総合の時間では、自分の生き方や在り方を考えるということが第一の目標に設定されている。
にも関わらず、わたし自身の学校教育体験では、「生きる」ということについて探究したという覚えはなかった。
これはなぜなんだろう。
仮説としてわたしは、次のように考えていました。
教育の現状として、「生きる」ことを考えるということが重要な第一目標であるにもかかわらず、その下位目標である、問題解決能力や課題発見能力、それを支える学力に焦点化されてしまっているのではないか。
(学校教育を批判したいわけではないです。その構造的な難しさがあるために、このような事態になっているということも承知しています。)
ところが、大学2年生の春に参加した、海外ビジネスインターンシップでは、短期間で自然と「生きる」ということについて考えるということが起きました。
なぜ、学校では出会ったことのない教育体験に、短期間の学校外教育では出会えたのか。
そして、「生きる」ということについて自然と語りたくなり、それが推奨される場は、どのようにして創ることができるのか。
こうした疑問を持ち、「生きる」ことの探究が生まれる学習構造の一端を明らかにしようと、卒論を書き進めました。
しかし、卒論を書き終えて、そもそも「生きる」ことを探究するとはどういうことかと考えました。
つまり、なぜ生きるのか、どう生きるのか、という問い自体の妥当性について疑問を持ち始めたということです。
この点について「進化論」の著者であるダーウィンに聞けば、
生きる目的とは生きることそのものだ。
人間は、ただ種の存続のために生きるのだ。
このように説明すると思います。
私たちは、自らの意思とは関係なく、この世界に生まれてきた。
にもかかわらず、個々人にとっての生を授かった意味や生きることの目的は、元来存在しないくて、ただ、人間という生物の存続のために生きるということです。
それが「生」の本質かと思うと同時に、なんだか悲しい気持ちにもなりました。
なぜ生きるのかという問い自体に意味がないのか、と考えました。
いや、しかし、そうではない。
むしろ、だからこそ、この問いには価値がある。
なぜなら、種の存続以外の意味を与えられていないからこそ、
私たちは自ら、人生に意味や目的を創造することができるから。
生きる意味も目的も、もともとない。だからこそ創造する。だからこそ問い続ける必要がある。
だから、やりたいことがわからないとか、何のために生きているのかわからないとか、そういった気持ちになるのはあたりまえ。
そんなことで、自分に自信をなくしたり、焦ったりしてはいけない。
なんだか、とってもあたりまえなことに気づかされたような気がしました。
学校では、みんなが「おなじ」人になるように育てられるのに、
社会との接続過程で、突然、自分が何者であるかを表現することが求められる。
こうした、社会からの二重の要求に、
子どもたちや青少年は惑わされているように思う。
そこに応えようとしていると思う。
それにうんざりしていると思う。
でも、生きる目的も生きる意味も、本当は無理して創造するものではない。
きっと、問い続けて、人生のどこかで自然と生まれるものなんだ。
だって、人間なんだから。
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