【怖い話】気のせい
新東名の森掛川インターを降りた先に南アルプスの緑が拡がっている。
目的地はとある滝。
当時私たち夫婦はパワースポットをめぐる旅に凝っていて、その滝も隠れパワースポットとして深夜ラジオで紹介されていたものだった。
夫は学生の頃から深夜ラジオ視聴を趣味にしている。
社会人になってから深夜にリアルタイム視聴することが難しくなっても、動画投稿サイトなどにアップロードされているラジオ番組を聴いていた。
最近じゃ私も面白いものを教えてもらっていくつか一緒に視聴している。
その滝を紹介していた番組もアップロードされたラジオ番組のひとつだった。
午前10時過ぎにインターを降りて、
30分くらい経ったころだった。
ナビの調子がおかしいことに気づく。
右に曲がれって言うのだけれど、ナビの画面を目の前の車窓もどうみても1本の林道があるだけで右折できる道はない。
「右です」
「右です」
「右です」
何度もリルートを繰り返し、曲がれと言い続ける。
無機質なナビの案内音声がさすがにうるさくなり、夫がナビを切った。
「山登ってるから方角は合ってるはずなんだけど」
「そのうち看板出てくるでしょ」
と違和感を気のせいということにして、そのまま林道を走った。
たっぷり30分は走っただろう。
林道はカーブを何回か繰り返していく中で、ガードレールもセンターラインもなくなった。
助手席側は断崖絶壁になり、落石注意の看板すらない。
かろうじてアスファルト舗装ではあるが、山道を登るにつれて振動が激しくなる。
幸いにも対向車はなかった。
静岡市内から川根、井川など南アルプスの南端をよくドライブしていたけれど、これはなかなかの山道だねと笑った。
いくつもの急カーブを越えた先、まっすぐ続いていた林道が突然途切れた。
田んぼがひろがる。
「なにここ」
「あれじゃない?椎茸集落じゃない?」
「椎茸集落ってなによ」
「静岡によくあるって聞くよ。獣道の先にある豪華な家は椎茸で財を成した椎茸一族の住む地だって」
椎茸集落か、なんかお土産に買って帰ろうかな、なんて笑いながら話していた。
しばらく走り、田んぼを抜けた先はT字路になっていて、いくつかの家屋が並んでいた。
左は通行止めになっていて、右にしか曲がれなかった。
その交差点にあるいくつかの家屋のうち、そのうち特に大きな、真っ白の壁の家があった。
椎茸集落の椎茸御殿かしら?白い漆喰の住宅なのかな?と目を向ける。
白い漆喰ではなく、白い紙人形が窓と壁を全て埋め尽くしていた。
緑あふれる集落に突然現れた白い家は不気味なほど異様だった。
何かを遠ざけているのか、あるいは呼び寄せているのか。
何かって何だろう、と唾を飲み込みながらその白い家の側を過ぎる。
この先に本当に隠れパワースポットとされる滝があるのか。
ナビはいまいちあてにならないので、グーグルマップで地図を出そうと思ったが圏外だった。
さっき峠では電波はいったけど谷間じゃ仕方ないね、と車を止めた。
道端で農作業をしてる老人に尋ねてみよう、と助手席側の窓をあけて声をかけたのだが。
「お仕事中すいません、道を伺いたいのですが……」
「アハハハハ!!アハハハハハハ!!」
鍬を持ったまま振り向いた老人は唐突な奇声をあげた。
奇声というか笑い声に近かった。
「アハハハハ!!アハハハハハ!!!!」
老人はこちらを見て、明らかに笑っていた。
義眼のような眼に真夏の太陽が反射して、変な光り方をした。
怖さより驚きが勝って面を食らってしまった私は「すいません」と言って、窓をしめる。
「えーびっくりした、何あれ?」
と運転してる夫に声をかけた。
だが、その夫の様子がどうもおかしい。
運転しながらも、サイドミラーにうつる田んぼを気にして見ている。
「どうしたの?」
「そっちの道端に人いる?」
言われたままに見てみたけど、人はいなかった。
田んぼとその先に山が拡がるだけだ。
紛らわしい案山子のようなものもなかった。
「いないよ?」
「じゃあ後ろは?」
「後ろ?」
「さっきのT字路入ったときからずっと、変な子供がついてきてるんだ」
えっ、と思わず振り返った。
振り返っても誰もいない。
誰もいないのに、バックミラー越しで確認すると確かに子供がいた。
白い子供。
2人。
3人。
4人、いやもっといる。
「いるよね、子ども。何人かいるよね」
鏡越しだと確かにいる。
でも、ともう一度肉眼で見ると誰もいない。
さっきの家といい老婆といい、この子どもたちといい、気のせいにはできない違和感が込み上げてくる。
ここ、何かが変だ。
「ねえ、なんかおかしくない?」
夫はアクセルを強めに踏んで急加速した。
「一回ナビ入れよう。私圏外なんだけどそっち電波入ってる?」
夫に話しかけても返事はない。
見慣れなはずの横顔は、夫のようでいて別の生き物に見えた。
おかしい。
これは気のせいじゃない。
言いようのない恐怖感がこみあげてきた瞬間、車は猛スピードで集落の道を走りはじめた。
「ちょっとちょっと!スピード!」
夫の様子が明らかにおかしい。
しかしハンドルを握っている以上、無理に止めることができない。
どうしよう!
どうしようもできなかった。
考えてる何秒かのうちに集落を抜け、また深い山道が目前に迫っていた。
『〇〇滝入り口』と書いてある看板が目に入った。
Y字路の谷間の部分に捨てられているような看板は、滝の名前の部分は朽ち落ちており判読できない。
どちらも山に向かっているけれど、明らかに左の方が舗装されている道だし、と思ったら、夫は逆の右方向にハンドルをまわした。
思わず体がよろける。
右の道は獣道に近い車がギリギリ入れるかどうかの狭い林道だった。
勾配はきつく、エンジンが悲鳴をあげる。
「ちょっと!危ないよ!」
木の枝が車体を擦って嫌な音がする。
嘘でしょ、と夫の表情を見たときに、思わずヒッと声が出た。
目元はボンヤリとしていて、口元だけ笑っていた。
笑っていというより歪んでいた。
何かうわごとのようなことを呟いていたけど、何を言っていたのかはわからなかった。
と、反対側の助手席の窓をみて、さらに悲鳴が出そうになった。
ほんの30秒もない程度だったと思うのだけれど、どれだけの距離を登ったのかってくらいの断崖絶壁があった。
ハンドル操作をわずかでも間違えたら真下に落ちる。
この高さは助からない。
気づいた瞬間、恐怖が破裂した。
故障したナビ、白い家、変な老人、子ども。
気のせいだと思いたかったけど、あれ多分気のせいじゃない。
怖い!
いやだ、しにたくない!
「マジでやばいって!しっかりしろ!」
思わず夫の顔面を平手打ちした。
同時に風船のようなものがはじける音がした。
夫が驚いて、前方と助手席を交互に見る。
「……え?なにこれ?」
「うわっちょっとこれ崖?やばくない?え?……は?なにここ?」
夫は正気に戻ったようだった。
この細い獣道を降りなければならないことら夫もすぐにわかったらしい。
「とりあえず!とりあえず降りよう!後で説明する!」
「わ、わかった」
慎重にゆっくりハンドルを切りながら後退した。
急勾配の山道の後退、何回か石に乗り上げて前輪が空転。
車はゆっくりと坂道を降りていく。
恐怖のあまり脚が震えていた。
祈るしかなかった。
アスファルト舗装のY字路に戻ったとき、思わず深い深呼吸をした。
一安心して見上げたときにまた驚いた。
Y字路の谷間に案内看板なんて何もなかった。
呆然としていたら、左側の山の奥の方から一台の軽トラがやってきて停車した。
右側に頭を向けている私たちの車をみて、助手席側に座っていた老人がが声をかけた。
「おめえらそっちの道は崩れて危ねえから入んじゃねえぞ」
爺さんたちがそのまま集落の方へ向かおうとしたので、呼び止めた。
「あの」
「そっちのほうの集落って」
「集落?」
老人ふたりが顔を見合わせる。
「集落なんてあったか?」
知らね、暑さで参っちまったんじゃねえのか。
運転手の声が聞こえた。
「気をつけろよ」
軽トラは大きなエンジン音をたてて集落のほうへ走り去っていった。
私たちはしばらくその場を動けなかった。
軽トラの後を追うように元来た集落の方へまた車を走らせた。
バックミラーについてくる子供の姿もない。
急に笑い出した婆さんもいない。
紙人形が埋め尽くしていた白い家もない。
そこは集落ではなく、いくつかの廃屋だった。
インターから北上して走ってきた林道へ戻るT字路もなかった。
田んぼの合間の揺れる道ををしばらく走ると、1車線の林道に出た。
また30分くらい走って、やっと市街地が見えた。
そこでようやく対向車とすれ違うまで、その間ほとんど喋ることができなかった。
先ほど夫には後で説明する、と言ったけれど説明のしようがなかった。
説明するとあの恐怖がまた蘇ってきてしまいそうだった。
夫は疲れと緊張が混ざった様子だけれども、あの不気味な表情をすることはなかった。
市街地に戻った時、時刻は13時をまわっていた。
3時間も経っていたのか、と驚く。
ひどく汗をかいていて空腹だった。
水分不足と空腹で少しクラクラする。
いったい何が起きていたのか。
私たちは本当に暑さで頭がおかしくなっていたのか。
それともあの集落は異世界だったのか。
異世界だったならば私たちは戻ってこれているのか。
電波が届いてすぐ、昨日夫と聴いたラジオ番組を検索してみた。
動画投稿サイトで見たと言っていたが、番組は見つからなかった。
タレントがMCをしている番組自体は確かにあったけれども、夫の言う放送日時のものは台風の臨時ニュースで放送自体が中止になってた。
滝を紹介する番組は存在しなかったということになる。
ならば私たちが聴いたのは何だったのか。
車窓に目をやると、そこにはいつもの富士山がある。
富士山は富士山なのだけれど、何かが違う。
いや、気のせいだ。
さっきから夫がなにかブツブツ言っている。
あれ、この人の口元こんなだったっけ。
そうだ、こんな顔だ。
きっと気のせいだ。
バックミラー越しに白い影が映る。
よく見ると子供の姿に見える。
それもきっと気のせいだ。