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大人は秘密を守る

先生が煙になったのは、今にも雲が剥がれ落ちてきそうな冬の日だった。 ピアノを習いたいなんて言った覚えはない。 いや覚えてないだけでもしかしたら言ったのかもしれない。 言ったとしても、そもそも熱意はなかった。 『ピアノのレッスン』という言葉に憧れただけ、そんな軽い気持ちで開いた防音扉は子供心ながらにとても重く冷たかった。 毎週火曜日の夕方6時半。 気の重い30分だった。 ちっとも上手にひけやしない。 多分センスがない、向いてない。 正直なところ面白くない。 楽しくない。

    • メダカの伴走

      子どもの頃に図書館の本棚から取り出していたのは取っていたのはズッコケ三人組だった。 長いシリーズだが、刊行されてる分は読み切った。 読み切った直後は爽快な結末に浸っていたが、すぐに気づく。 これは虚構だ。 私はハチベエにはなれないし、モーちゃんやハカセみたいに頼りになる仲間もいない。 クラスの中にもしかしたらズッコケ3人組はいたのかもしれないけれど、モブキャラの私には関係はない。 ドラマチックな事件は起こらない。 それが現実だ。 それをわかりながら、本を愛していた。 虚構

      • 【ショートショート】UFO

        「いたいた、久しぶり」 「……久しぶり」 別れを告げた日から10年は経っているはずなのに、彼は暗い店内ですぐに私を見つけ、私も声をかけてきた男性が彼だとすぐに分かった。 偶然にも元彼をSNSで見つけた。 DMを送ってみたらせっかくだから飲もうということになった。 普段よく使うチェーンの居酒屋ではなく、お酒の美味しいお店を予約していた。 久しぶりに会うのだから。 せっかくだし良いもの食べたい飲みたいから。 オープン席でもいいかなと迷ったけれど、でもやっぱり個室のほうかなと個室

        • 【ショートショート】足音

          小学校3年生の頃、体育の授業が大嫌いだった。 中でもマラソンが大嫌いの中でも特に大嫌いだった。 今日はマラソンの練習がありますなんて予告されようものなら、前日に水風呂に入って風邪をひこうとした。 授業ですら嫌で嫌で仕方がないのだから、練習などミリともしたくない。 そんな大嫌いなマラソンの練習につき合わせたのがミカちゃんだった。 だからか、私はミカちゃんにちょっと、いや、かなりムカついついた。 走るのが大好きですらりと手足の長いミカちゃんと、本を読むのが大好きで鈍くさいヒロ

          ワンスター

          20代の頃、とある靴を欲しがっていた。 「丸トゥのパンプス、ヒール部分は5cmくらいかな。インソールは小花柄で、ストラップ止めてるボタンはくるみボタンみたいなやつ。長く立っていても足が痛くならず、駅の階段を駆け下りることができる程度の締め付け感」 なんて言うと友人はたいていケラケラ笑って、そのあとに 「そんなリクエストの多い靴、そもそも存在するの?」 と真顔で尋ねた。 私も真顔で答える。 「わかんない」 雑誌をめくり、通販サイトを探す。 ここかな、と目星のブランドを見つけて

          ワンスター

          【怖い話】気のせい

          新東名の森掛川インターを降りた先に南アルプスの緑が拡がっている。 目的地はとある滝。 当時私たち夫婦はパワースポットをめぐる旅に凝っていて、その滝も隠れパワースポットとして深夜ラジオで紹介されていたものだった。 夫は学生の頃から深夜ラジオ視聴を趣味にしている。 社会人になってから深夜にリアルタイム視聴することが難しくなっても、動画投稿サイトなどにアップロードされているラジオ番組を聴いていた。 最近じゃ私も面白いものを教えてもらっていくつか一緒に視聴している。 その滝を紹介し

          【怖い話】気のせい

          【ショートショート】innocent world

          高速のインターを降りた車は、街を背にして走る。 一直線に伸びる片側2車線の道路は車もまばらだ。 窓を開けると、昨日の雨とかすかな夏が香る。 新緑と青空のコントラストがまぶしい10時過ぎ。 ランチにはまだ少し早い。 せっかくだからこの先の高台にある展望台まで妻を連れていこう。 何年ぶりだろうか、あの展望台。 「懐かしいな」 ひとりごとのつもりが思わず口に出していた。 ごく小さなボリュームのつもりだったが、妻は聞き逃さなかったらしい。 「このへん来たことあるの?」 「まあ」 「最

          【ショートショート】innocent world

          【ショートショート】Simple

          21世紀最初のクリスマスを迎えた渋谷はひどいお祭り騒ぎだった。 ハチ公口の改札口のその先、センター街に通じるスクランブル交差点には人が溢れかえっていた。 爆音で流れるクリスマスソングが空で合唱している。 夏の田んぼでよくみるカエルの合唱のようだった。 イルミネーションがともり始め、青や緑、黄色の看板が光り出す。 叫び声に近い笑い声は、祭りのどんちゃん騒ぎのようだった。 さすがにこれだけ混みあっていると会話もままならない。 「すごいね」 「ほんとすごいね」 私が彼の左手を強く握

          【ショートショート】Simple

          【ショートショート】君が好き

          12月、クリスマスの頃は1年で最も寒い時期だという。 車の中はエンジンをかけても暖かくならず、外からずっとコートを着ている。 ラジオからはクリスマスソング特集が小さく流れていた。 冷え込む東京の空の下、複雑に絡み合った首都高は今、東京タワーをぐるりと回った。 赤い光が夜を照らす。 雪がちらつき始めた冬の夜。 「寒いねと言う君のいる暖かさ」 「なんかうっすら聞いたことあるな、それ。なんだっけ」 「確かサラダ記念日こんな感じなんだよね」 「ああそれだ」 天現寺、芝公園、竹橋

          【ショートショート】君が好き

          【ショートショート】今宵の月のように

          「おつかれさまです、お先に失礼します」 アパートの一室の扉を開けると、ひんやりとした夏の夜の空気に包まれる。 時計は20時を回っていた。 駅へ降りていく線路沿いの坂道を下る。 ああ疲れたなぁ。 いったい今日は何時間働いたんだっけ。 あれ、お昼ごはん何食べたっけ。 そもそも食べたっけ、あれどうだったっけ。 笑いながら歩くカップルとすれ違う。 居酒屋から楽しそうな歌声が聞こえる。 カレーの匂いが香る。 お腹と涙腺がキュッと収縮した。 今の職場、都内A駅近くの訪問介護事業所に入職

          【ショートショート】今宵の月のように

          2011年8月、石巻の記憶

          <今やれることを> 2011年8月。 東北沿岸部へのボランティア派遣が決定しました。 3月下旬のさいたまスーパーアリーナでのボランティア活動で知り合った人の紹介でした。 宮城県石巻市内の福祉避難所での福祉支援です。 知人からメールをもらい一瞬ためらいました。 本当に行っていいのだろうか、と。 SSAに避難した人たちのほとんどは、原発事故で故郷を亡くした人たちでした。 沿岸部で避難生活を送っている人たちは、家族や友人を亡くした人たちです。 どちらも亡くしたことはないから苦

          2011年8月、石巻の記憶

          さいたまスーパーアリーナが避難所になった10日間。

          2011年3月11日14時46分、東北地方太平洋沖地震が発生。 その50分後、大津波が発生し、原子力発電所の事故も起こりました。 目の当たりにした大災害。 友人や知人、その家族たちも多く被災している。 一方、自分たちの生活も計画停電や物資不足など混乱が続いている。 原発事故もどうなるのかわからない。 「なにかをしたい」 「なにができるのか」 「なにかをしたいけどどうしたらいいのかわからない」 そんな心境の中で迎えた震災5日目の3月16日。 耳にしたのが『2000人の被災者が

          さいたまスーパーアリーナが避難所になった10日間。