読書ニート山に登る
運動不足がマジでやばいという懸念が、ずっと頭の片隅に居座り続けていた。年始に燃え尽きてしまってから、それまで(ほぼ)毎日続けられていた朝の散歩が途切れ始めたり、ラジオ体操の習慣が完全に途絶えてしまったり、連なって起床時間は後ろにずれて、夜ふかしが増えて、頭が働かない……
地元の低山に登らないかと誘われたのはそんな折だった。秋口から出稼ぎに行こうと思っていたので、いい加減このままの生活リズムではまずい。この負の連鎖を断ち切るために、山へ行こう。
一合目
麓に到着した時点では、うっすらと霧雨が降っていた。じめじめとまとわりつく湿気を肌に感じながら、民家や山寺の脇を通り抜け、登山道に分け入ってゆく。薄暗い森の中、辺りがぼんやりとしか見えないことに驚く。屋内にこもってばかりいたからだろうか、それとも視力が落ちたのか? 同行者のリュックを頼りに山道を進んでゆく。
首からぶら下げた一眼レフがゆらゆら揺れて、正直邪魔だ。でも、山に登るときはいつもこのスタイルだから仕方がない。山ではいつも、気付いたら何かに目をひかれている。そういったものを淡々と写しつつ登ってゆく。
四合目
近づいたり離れたりしていたせせらぎの音が、だんだん大きくなってくる。頭上からミンミンゼミとツクツクボウシの鳴き声が降り注いでいる。思えば今まで山に登ったのは紅葉が見頃の晩秋が多かった。夏秋の境目ならではの感覚はちょっと新鮮だ。ちなみに西日本ではミンミンゼミは山間部にしかいないらしい。この夏初めてミンミンの声を聞いた。日本の夏って感じで好きだ。
サワガニを踏んづけないように沢を渡って、落ちてくる毛虫トラップを神回避した。
七合目
勢いに任せて登っていたものの、足腰がかなりキツくなってきた。ここ最近ずっと図書館で座りっぱなしだったから当たり前だ。伸縮性の少ないズボンやツルツル滑りまくる軍手による消耗も大きい。こういうとき山装備を揃えたいなあと思う。高いからそうそう買えないけど。唯一山っぽいノースフェイスのスニーカーも、四年ほどで履き潰してしまいボロボロだ。それでも一応防水を保ってくれているのはありがたい。
八合目
霧が立ち込めている……というより、雲がかかっているのかもしれない。山の暗さにはだいぶ目が慣れたが、疲労で視野がとても狭くなっている。急勾配の段差に足をかけて、重心を低くしてよじ登る。すると目に飛び込んでくるのは、一本の木、一つの岩だ。視界が狭くなるにつれ、そういった一つ一つの存在感が大きくなってくる。登り初めには気づかなかった、木肌から顔を出す小さな菌や岩の纏う苔の一本一本が、拡大されて目に入る。
山頂
短い鎖場を抜けて、ようやく山頂だ。先客と入れ替わりに岩の上に立つ。標高六百メートル強。周囲に高い山がないので見晴らしが良い。(雲が多く一方向しか見えなかったが)
足腰はもうボロボロだ。下りは本当に大丈夫かと不安になったが、十分ぐらい休むとけっこう回復した。人体ってすごい。日頃このエネルギーを無駄にしてしまっていることにちょっと申しわけなくなった。
下山
山を下り始めると日が差してきた。これぐらいがちょうど良い。登りに太陽燦々では疲れてしまうから。冷たい沢に手を突っ込んで顔を洗った。
山は下山のほうが事故が多いと聞いたことがある。急勾配を小刻みに慎重に踏みしめながら降りる。カメラはリュックに。登りは足腰だけを使ったが、下りは全身の神経を尖らせる。木でも岩でも、掴める場所は全部掴もう。笑う膝をバネにして、一歩一歩足を踏み出していく。止まってしまったら、歩けなくなるような気がする。下りる。
帰宅
帰ってシャワーを浴びていると、足首が血だらけだった。なんじゃこりゃ。ヒルに四箇所も噛まれていた。30分ぐらい血が止まらなくて焦った。絆創膏をたくさん使った。幸い血は止まったが、明日はきっと筋肉痛で死んでるんだろう。R.I.P.
山のモード
山に登ったのは二年ぶりぐらいだったので、登り始めはとても不安だった(視界も悪かったし)。それでも二十分ほど歩いたときには、もう完全に「山のモード」とでもいうぐらい環境に適応できていた。一体、山では自分の何が変わったのだろうか? 山に登る意義を考えてみたい。
衛生観念が吹っ飛ぶ
自分の場合、日常と山での最も大きな感覚の違いは「衛生観念」だと思う。日頃その辺に生えている木があったとして幹に触ろうとはあまり思わないし、ましてや苔の生えた岩なんてそんなに触りたくない。だが、しばらく山にいると、苔も菌も蜘蛛の巣もそれほど気にならなくなってくる。(もちろん手袋の効果もあるだろう)
地上と山では、明らかに衛生観念が変わる。山ではあらゆるものが命綱になる。ちょうどいいところに生えている木も、出っぱったところがある岩も、自分の体重を支えてくれる安全装置だ。常に滑落の緊張感が伴う登山では、衛生なんて気にしていられない。汚いとか腐ってるとか関係なく、みんな平等に僕らの仲間になる。
自然との距離が近くなる
こうして登りながら色々なものに触れることで、自然との距離がぐっと近づいてゆく。目で見るのと手で触れるのでは、その存在感が圧倒的に異なる。確かに今この木はここに生えていて、そして僕らが家に帰った後もここに生え続けているのだろう。そんなことを考える。
この感覚はきっと、麓では味わえない。疲労で鈍くなる思考、狭くなる視界、研ぎ澄まされる手先と足先、一歩間違えれば死ぬという緊張感。そういったものがごちゃ混ぜになったとき、自然はいつもと違う姿を見せてくれるのだろう。
五感を使う
山では味覚以外大体使う。部屋の中より体感30倍ぐらいは使ってる気がする。日頃使わずに鈍っている感覚が張り詰めていくのは気持ちがいい。遊動生活していた頃のDNAが呼び起こされる的なやつだろう。人類は未だ遊動生活向きのバージョンからさほどアップデートされていないのだ。そういう感覚も使ってやらないとそりゃあ退屈もするだろう。登山は野生を解放するのにもってこいだ。山に登ろう。そこに山がある限り。