さいたまスーパーアリーナが避難所になった10日間。
2011年3月11日14時46分、東北地方太平洋沖地震が発生。
その50分後、大津波が発生し、原子力発電所の事故も起こりました。
目の当たりにした大災害。
友人や知人、その家族たちも多く被災している。
一方、自分たちの生活も計画停電や物資不足など混乱が続いている。
原発事故もどうなるのかわからない。
「なにかをしたい」
「なにができるのか」
「なにかをしたいけどどうしたらいいのかわからない」
そんな心境の中で迎えた震災5日目の3月16日。
耳にしたのが『2000人の被災者が、福島県から埼玉県に避難してくる』という一報でした。
当時介護福祉士をしていた私は、友人と待ち合わせてさいたまスーパーアリーナ(SSA、さいたま市中央区)へ向かいました。
SSAとその最寄り駅、さいたま新都心駅はなじみの深い場所です。
レンタルビデオ屋、カフェ、映画館、ショッピングモール。
埼玉にしてはオシャレな新都心でしたが、その日の様相はよく知ったさいたま新都心ではありませんでした。
『ボランティア希望者』
『物資提供』
長蛇の列と壁沿いに連なる段ボール。
ペデストリアンデッキからアリーナ1階を見やると、大型バスがアリーナ周りをぐるりと連なっていました。
そこは確かに避難所でした。
ボランティア希望者の列はいくつかに分かれていました。
ひとつは一般ボランティア、もうひとつは専門ボランティア。
医療福祉関係の有資格者や経験者は専門ボランティア側に並ぶように指示を受けました。
介護福祉士だった私もその列に並びました。
アリーナ入口の少し手前で身分証明書などの登録をします。
ここまで友人と同行していたのですが、看護助手経験のある友人は医療班へ、私は福祉班のほうに分かれました。
支援班の中での申し送りで挨拶をし、その場で連絡用の携帯電話番号を交換。
いくつかの注意事項を説明されました。
・ボランティア希望者が直接きたら、ボランティアステーションにまず登録するように誘導する
・物資の受付は今日は行っていない(溢れかえってたので)
・不審者を見つけたら警備員に通報する
・許可証のないマスコミの方はまず待ってもらう
・19日午後、2000人の避難者がバスで到着する。
すぐにその場でシフト表が組まれ、待機係・巡回係・支援係などが割り振られました。
支援内容は主に3つ。
特に多かったのは移動・移乗の支援です。
移乗っていっても普段の介護施設でやっているような簡単な移乗ではありません。
なんたって雑魚寝状態からの起こしなので、腰への負担がとても大きい。
移乗用の車いすをスタンバイして、2人がかりで移そうとも、人ひとりがやっと通れる程度の通路では足場もとりにくい。
アリーナ廊下部分はバリアフリー設計でスロープや手すりなどがあるものの、それはあくまで常時を想定しているもの。
まさか避難所として使われるとは想定されていない設計です。
SSAが避難所になると知った時点である程度の予想はしていたものの、その予想の斜め上を行く非常に難しいケア環境でした。
2つめは清潔援助です。
入浴設備は何か所かありましたが、あくまで健常者向けのもので、介助が必要な方には利用しにくいものでした。
こうなったら全身清拭やケリーパッド洗髪など、いわゆる在宅介護の出番です。
しかしここは自宅ではなく避難所。
プライバシーを確保するためにパーテーションと簡易ベッド作る必要がありました。
また、給湯器やお湯の出る蛇口が近くにあるわけもありません。
トイレの水道から水を汲み、お湯をバケツに入れて運搬するしかありませんでした。
主に高齢者の、特に寝たきりの方の全身清拭や洗髪などをしましたが、これが大変でした。
「津波で塩かぶってから、着替えはしたけど体はずっとそのまま…」
背中をこすれば垢と塩がポロポロと落ちてきます。
髪には泥と埃が絡まっており、シャンプーやボディーソープの泡は立つ暇もなくすぐに消えていきます。
震災から1週間いかに過酷な環境を生き抜いてこられたのか、それから普段いかに恵まれた環境でケアを提供できているのかを実感しました。
3つ目は、いわゆる御用聞きでした。
19日夜に食事の配給が始まってからは配食も行われましたので、それを届ける。
病院送迎、買い物送迎、新聞代読などもありました。
そうこうしているうちに日常会話などのやり取りも増えて、最初のうちは黙り込んでいた方々も、少しずつ話をしてくれるようになり嬉しかったものです。
その御用の内容も時間と共に変化していきました。
3月29日のSSA閉鎖が近づくと、荷造りの手伝い、バスへの移動支援、埼玉県内各地へのバス往復などの支援内容に変わりました。
避難所内部の状況についてです。
当然なのですが、埼玉県なので津波はありません。
地震はないとは言い切れませんが、建物自体の揺れはさほど感じませんでした。
段ボールと銀マットと新聞紙と毛布の上に雑魚寝の状態。
何か所かはこしらえていましたが、ほとんどが仕切りのないプライベートも何もない状態。
廊下部分だったので風はかなり通ります。
「なんでアリーナの中じゃないの?なんで廊下なの?」
よくそう聞かれたものですが、これにはいくつか理由があると初日のうちに気が付きました。
アリーナの中はだだっ広い空間でもあるため、とにかく寒かったのです。
また通路のほうが柱があり、耐震強度はこちらのほうが抜群に高かった。
柱にはアリーナ特有の番地表記があり、2000人超の避難者を整理しながら支援するにはうってつけでした。
なによりアリーナ内部になくて廊下部分にあったもの、それはテレビとコンセントでした。
数少ない情報源であるテレビと、それから連絡手段である携帯電話。
当時何より重要だったもののひとつです。
だからって快適かと聞かれたら、そうとは言えません。
期間中の申し送りで問題点にあげていたのが以下の3点でした。
・雑魚寝状態をどうにかしたい。段ボールでベッドを作れないか。
・プライバシーが確保されていない。各家庭ごとにパーテーションを作りたい。
・夜間の照明や巡視が必要。
3月19日から29日までの10日間。
当時、どの問題も解決はされませんでした。
交通の便の良い避難所と言うだけあって、人手・物資ともに余り切っている状態です。
そこで問題がいくつか発生しました。
朝いちばんで、透析患者さんの送迎。
車いすの貸し出し予約があったので届けに伺うと、そこには数名の医療スタッフがいました。
「透析は医療班がしますので!介護ボランティアはいいです!」
と強く言われてしまいポカーン。
「そういうことなら帰りますか」
「まあそういうね、支援内容の整理整頓ができてきているってことですよね」
「ボランティアがいらなくなるのが一番ですしね」
安堵していたのですが、これが大きな思い違いだったということがあとになり発覚しました。
その日の午後、落ち着いた時間に医療班・福祉班の友人とファーストフードでランチをしていました。
「人手が足りない」
医療班の友人の言葉に驚きを隠せませんでした。
規模は大きい。
収容人数も多い。
人数も物資も足りている。
しかし連携や共有がされていませんでした。
医療・福祉が縦割り状態。
避難してきた自治体の社会福祉協議会の担当の方々とも、情報共有ができていなかったと思います。
どういったリスクのある避難者がいるのか。
どういった物品が不足してどこに行けばあるのか。
どういったニーズがあるのか、それに対して何ができるのか。
個別の申し送りではなく、全体申し送りでもあれば少しは改善されたのではないかと思います。
日が経つにつれ、また2000人規模で避難者が来るとの全国放送もあり、専門ボランティアのみならず、一般ボランティアの数も増えていました。
活気がある、というよりも殺気立つに雰囲気が近かった気がします。
SOLが確保された被災地外支援。
だからこそ、先を見据えたQOL支援が必要だったように思います。
加えて、避難所運営の難しさを考えます。
もちろん、もう二度とSSAが避難所として使われるような事態はあってほしくないです。
ですが、そのときはいつ来るか分かりません。
阪神淡路大震災、中越地震、それから東日本大震災。
いつまた避難所が必要とされるその日が来るか。
社会福祉協議会とはまた別に避難所運営コーディネーターが必要なのか。
それとも社会福祉協議会の権限を強化するのか。
情報共有はどう行うのか、その際の個人情報保護はどうするのか。
その日が来る前に一体何ができるのか。
あれから10年。
多くの災害が起こり、多くの避難所が開かれました。
昨今のコロナ事情も相まって、避難所の環境は大きく様変わりしています。
備蓄食料の他に衣料品やマットレス、テントで仕切られた体育館、段ボールベッド、消毒薬の完備。
あのとき解決できなかった問題のいくつかはもう乗り越えられている、そう感じています。
それでも祈るのは、避難所の要らない穏やかな日々が続いてくれることです。
震災、10年の節目に。