【海外赴任】Steve jobsのconnecting dotsを実感した話し
大学時代にNew York(正確にはお隣の州のNew Jersey)に語学留学をしたり、それに味をしめて、1年間日本の大学を休学してテネシー大学の経済学部に編入したり。
更には、帰国後、日本の大学を卒業する前の4ヶ月ほど、バンコク、インドからヨーロッパまでほぼ陸路で横断したり。(これは当時、沢木耕太郎の「深夜特急」という本に刺激を受けたため)
当時としては、かなり海外にかぶれた学生だった。
学生同期の友達から1年遅れての就職活動の時、特に行きたい業界や会社はなく、海外に赴任させてくれる会社がよいということで、ソニーに入った。
入社すると、電子部品を販売する部署に配属された。
ソニーブランドの、テレビとかオーディオ機器は知っていたが、電子部品を販売しているとは全く知らなかった。
人事部が、半導体(げじげじに見える部品)、バッテリー、テープを読み取る磁気ヘッド、小型モーター、最近市場にでたCDプレイヤーの光学ピックアップ(オタマジャクシに見える部品)等を机に並べて、配属希望を聞くので、どの商品を売りたいかよく現物をみるように、と言われた。
全くどの部品にも気が引かれなかった。
部品の営業部隊は当時品川駅前のビルに入っており、場所によっては東京タワーがよく見えた。
「私は大阪から上京してきたので、できれば、東京タワーが見える部署をお願いします。東京タワーみながら残業頑張ります」と、人事に配属希望を伝えた。
私のリクエスト通り、私は営業本部の中で東京タワーが一番よく見える部署に配属された。
CDプレイヤーを生産するのに必要な電子部品を、ソニー以外の電機メーカーや、工場に販売する部隊であった。
私は配属されるなり、部長に「早く海外に行かせてください、どこでも行きます」と機会があるごとにアピールしていたら、3年目にめでたく赴任となった。
赴任したい国とか地域の条件を言わなかったのがよかった。
大抵の人は、インドは嫌いだ、中国はイヤだと赴任地を選り好みするコメントを言ったりするが、私の場合は、とにかく海外に出たかったので、どこでもよいと無条件だったのが功を奏した。
赴任先は香港。
香港の工場への部品セールスを担当すると思って赴任したが、着任してみると、現地の日本人上司から、「先週香港人を1人雇ったので、あなたは、これから商売が始まりそうな中国を担当してくれ」と言われた。
翌日には、日本人上司に、香港の隣りにある中国・深圳に連れて行かれた。
香港資本の電子部品商社の深圳支店を訪問し、そこの所長さんに紹介され、明日から毎日この事務所に来て働くようにということになった。
大学時代に、第二外国語は中国を専攻していたが、何度も単位を落としていて、中国語は全く話せない状態だった。
翌日から、支店長さんの名刺を中国側の国境でタクシーに見せ、この部品商社の深圳支店に通い始めた。
なんだかんだいって、それからほぼ毎日、私は深圳で働くこととなった。
香港の事務所には、当時150人くらいスタッフがいた。
内、駐在員はざっと約20名。
その中で、私が唯一で最初の中国専任担当者となった。
単純に朝の通勤時間は、香港オフィスに通うのに比べて1時間余計にかかった。
香港勤務に比べると、1人だけ貧乏くじを引いた感じで、涙眼になる日も多かったが、それから6年間手を抜かずに働き中国語がペラペラに。
その8年後には、台湾子会社の社長になった。
中国語のおかげ。
そして、都合17年間、3ヵ国で海外販売子会社の社長をすることができた。
貧乏くじを引いても手を抜かずに頑張ったことが、私のキャリアを大きく展開させることとなった。
ただし、当時の自分にはそういった将来への糸は全く見えていなかった。
Steve Jobsのconnecting dots.
人生をある地点から振り返ると、一見、バラバラにしか見えないような出来事が、不思議なことに成長線で繋がっているのがみてとれる。
逆境や不確実性に直面した時でも、全力で進み続けることにより、いずれは成功につながることがある。
私の中国担当は、まさにこのSteve jobsの言葉を具現化したものだった。
📚Steve jobsのconnecting dots. Appleの創業者 Steve jobsが2005年のスタンフォード大学卒業式で行った伝説のスピーチで出てくる言葉です。
こちらか、youtubeで動画が見られる。
https://www.youtube.com/watch?v=VfEk3vcWtzM
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