2021.11.25 今日の音|弱いも強いも相対的で主観的な指標
こんばんは、小沢佑太です。
最近、強さと弱さについてずっと考えています。
今日は、人はどこでどのタイミングでどういう時に「弱い」「強い」と感じたり、レッテルを貼ったりするんだろうなあという話です。
結論じみたことを先に言うとすると、
「誰かと比べた時」だろうなと思います。
人は他者と自分の一部を比較したときに、他者より優れているか劣っているかをみて、強い・弱いを判断しています。
「自分は弱い人間だ」
「キミの心が弱いからだ」
なんてのはよく言ったり言われたりしてきましたが、
これは話者が誰かと比較して相対的に発した言葉に過ぎないということです。
あるいは、
ものによっては絶対的基準があるのかもしれません。
誰か、ではなく何かと比べたときにも強い・弱いの評価は下せます。
例えば、
僕は毎日note書いています。今日で329日目です。
329日欠かさず書いています。
これだけ続いていたら意志が「強い」と言えるのかもしれません。
一方で、三日坊主は意志が「弱い」と言うのかもしれません。
これはおそらく人によって「すごい」の基準が違ってて、そのラインを超えたら続けていることを評価されるという構造なんでしょう。
とはいえ、共通しているのは「強い」「弱い」は主観であるということ。
誰かにとって329日連続投稿は誉められるものだったとしても、
別の誰かにとってそれは難なく乗り越えた当たり前の階段かもしれません。
現に、今の僕にとって、329日を330日にすることは2ミリぐらいの努力と意識で事足ります。だからこそ、「強い」「弱い」は主観です。
だけど僕たちはこの主観に大きく左右されてしまいます。
「強く」思われたくて、強がってみたり、取り繕ってみたり、格好つけてみたりします。
「弱く」思われないために、難しい言葉を並べたり、間違いを認めなかったり、嘘をついたり、隠したりします。
自分が自分に対して強くなれたら、そんなに繕う必要もないのにね。
それが難しいんだろうけど。
だからきっと、「強い」と「弱い」は相対的で主観的なレッテルで他者に依るもののはずなのに、いつしかそれが自分への首締めになっていたり責める武器になっていたりしちゃうんです。
一つを極めるのが苦手なことを言い訳にしたくて、マルチタスクを買って出るできる人になったのかもしれない。
感情的になるのを恐れて、俯瞰的に理性的に生きて一歩引いた大人な自分を演出しているのかもしれない。
醜くて暗くて冴えないが故に馬鹿にされた過去を否定したくて、おしゃれして格好つけて生きているのかもしれない。
裏切られることに怯えて、信じるのをやめたことで何でも一人でできる子でまかり通っているのかもしれない。
自分自身に厳しすぎて、完璧にできないものを放棄した結果、のらりくらり生きる人間になってしまったのかもしれない。
諦めたら負けだ、ダメだと言い聞かせすぎたことで、決めたことを変えられない継続的な人になったのかもしれない。
休むことを悪だと捉えて、善であり続けるためにずっと止まらずに走っているのかもしれない。
架空の誰かさんのことを書いてみたものの、全然自分にも当てはまっているのかもしれない。
2021.11.25、作品のタネノタネ。
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■まず最初に読んでほしい「夢を追い続ける、小沢佑太のガイドブック」
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