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あなたに出会ってから、

こんな重い話をするのは大変恐縮だが、私の過去の話をしようと思う。
暇な時にでも読んでくれたら幸いだ。

わたし、人間としてこの世界を生きていくのがずっと苦しかった。
いつも1番になれなくて、何もかもが劣っているように感じて
外では明るく振舞ってるくせに、家に帰ると親にもバレないように声を殺して気絶するまで泣くような、そんな生活だった。
おかしくなったのは中学に入ってからで、
当時習っていたバレエと両立出来るからという理由で入部した美術部が原因だった。
顧問は車椅子で手足が麻痺してほとんど動かない、そんな先生だった。
これだけ聞いたら可哀想な人だと思う人は思うだろう。
でもこいつはなにもかも酷かった。
英語の先生だったのだが、課題は一日じゃ終わらないような膨大な量(実際日付が変わるまで起きて課題をやるようになったのはこの頃。始めて日付を越すという経験をした)、授業中は頭のいい順に席に並べる公開処刑のような所業。
部活では顔の可愛い子のみアドバイスを事細かにし、賞に入賞させ、他の子は汚れ仕事や雑用、もしくは空気のようになにも声掛けない。そしてなにより、スカートの下に動かない手を入れてくる。セクハラパワハラの亡者だったのだ。
こいつのせいで寝る時間が遅くなっていったのも要因だろう、終わらない課題を目の前に、こんなものやるくらいなら死んでしまいたいと思うようになっていった。まあ、そんなことを言いつつ課題くらいはこなしていたけれど。
問題は部活だった。もちろん顔が整っていない私には先生の当たりは強かった。アドバイスを求めても冷たくあしらわれ、やりたいことはやらせてもらえず、目の前で可愛い子たちが可愛がられているのを見て劣等感が募っていくだけだった。そんな頃だった。リストカットというものを知ったのは。
初めて切った日のことをよく覚えている。
あいつの名前を刻んでそれをぐちゃぐちゃにしてやろうと思って切った「乙」というあいつの最初の文字。思ったよりも痛くて、上手く切れなくて、「Z」になったのを覚えている。絆創膏を貼って学校に行った。みんなからリスカか?と茶化されて、そんなわけないじゃんと強がった。
そこからだった。何かあるたびに腕に傷を刻むようになっていった。
最終的に、先生と揉めて1年で部活を辞めるのだが、そこからもリスカをやめることはなかった。中学生当時はドがつくほどの真面目だったわたしは、勉強に追われ、最終的にはM高校→H大(しかももっと上に行けるのに母親に出ていかないでといわれて妥協でH大へ進学)という頭のいい友だちと比較し、どの教科でも95点超えているのに1番になれない劣等感からどんどん自傷行為はエスカレートしていった。
結局は最後まで受験勉強をし続ける気力はなくなって、H高校という目標を下げてもう勉強しなくても入れるくらいのレベルだったK高校に入学した。
高校一年生は楽しかった。クラスのみんなとも仲良くて、体育祭では大活躍。(私だけの力ではないけれど)出た種目全てで3位以内入賞。クラスを1位に導き、学祭でもみんなで協力して和気あいあいと準備から行なった。
問題は1年生の後期あたりからだ。
部活が悪かった。経験者ばかりの陸上部で、(男子とはいまでも仲良いけれど)女子はみんな気が強く、数人でグループを作って仲良しこよしするタイプのめんどくさい女の典型のような人たちばかりだった。仲間外れみたいにされるし成績も経験者だからその子たちの方がいい。さらに、もう1人爆弾がいた。マネージャーの子(ものすごく可愛い)を気に入り、その子としか話さないというモンスターだ。話しかけても無視してくるし、悪口は言うし、相当メンタルに来た。1番覚えているのは、マネージャーの子とその子と私で帰ったときのことだ。バスだったマネージャーの子とバス停で別れ、2人で駅まで歩く際に、さすがに何か会話をしようと何かしらたわいのない話を振ってもさっきまで会話していたのが嘘かのようにガン無視を決めこまれた。その子が特に嫌になっていって、部活が億劫になっていった。大好きだったやさしい3年生の先輩が引退した頃から、わたしはシンスプリントになったのをキッカケに、怪我で休むと言い訳してほとんど行かなくなった。この頃、再び自傷行為をするようになった。しかし、体育の授業は半袖短パン指定だったため、すでに傷だらけだった手首を絆創膏だらけにするわけにもいかず、二の腕を切るようになった。
また、2年生にあがってからも問題だった。1年生のときから、余裕で入ったK高で成績が奮わないことに劣等感を感じていた。それに拍車がかかったのだ。この高校の数学の先生はことごとく昭和気質で、勉強から逃げるな、逃げるな、と追い込んでくるような人ばかりだった。宿題は多いし、授業のスピードは速いし、置いていかれるばかりで辛かった。
2年生になったときの人間関係の話をしよう。
わたしは仲良し4人組で過ごしていた。全員心に何らかの問題があったから、意気投合したのだろうと今では思う。1人は1学期で心をやられ学校を辞めていった。もう1人は躁鬱でそもそも学校を休みがちだったし、もう1人は私と一緒できっと心になんらかを抱えていて躁鬱の子と同じように休みがちになっていった。
1年生の頃から仲良かった友達も3年生の二学期で辞めていったし、私の周りはこうゆう人が多かったのだと思うのだが、それに流されてか私も学校を休みがち、遅刻がちになっていった。この頃にはもう何に心を病んでいるのかわからず、常に死にたかった。腕を切っても痛みを感じず、どんどん切り傷は深くなり、跡がくっきりと残るようになっていった。高三にあがると、担任が変わった。女性の先生だったのだが、これまた合わなかった。クラスにも友達が1人しかおらず、どんどん行かなくなっていった。18歳を迎えれる未来が見えず、どこかで自殺するから未来が見えないんだろうな、なんて考えていた。この頃はもう、自傷行為がエスカレートしていて、カッターで腕を切るだけじゃ飽き足らず、タオルケットで首を縛ったり、真冬に窓全開で半袖短パンで凍死チャレンジをしたり、ベルトで首を吊ったり、頭痛薬を過剰摂取したり、もうそれはそれは目も当てられないほどだった。休みがちになっていた理由も行きたくないからだけではなく、本格的に朝は体が動かなくなっていた。これはのちに鬱の症状だと知るのだが、重力に負けて身体を引っ張られても起き上がることが出来ないのだ。貧血、低血圧もひどくなっていった。秋ごろになると、朝遅刻の時間に家を出て、学校の最寄り駅のフードコートで小説を買って読んだり(もちろん泣いた)、駅とは逆方向の公園のブランコに座って泣きながら至る所の精神科やら心療内科やらと名のつく場所に片っ端から電話をし、予約は半年後なんですよねと尽く断られ号泣しながら電話を切る、そのまま公園でリストカットをする、そんな生活をしていた。極めつけは共通テストの直前に祖母が亡くなったことだった。すでに受験の気力がなかったわたしは、勉強しなくても入れる短大に先生に勧められたからという妥協で入学願書を出し、ノー勉で挑むくらいの状況だった。それでもそこ1本で受験するため、失敗したら浪人というプレッシャーが少なからずあったのだろう。日に日に精神的に不安定になっていった矢先のことだった。共通テスト3日前に祖母が死んだ。お正月はコロナが怖くて会いに行っていないから、半年近く会っていなかった。突然のことだった。お正月までは元気だったという話を聞いていたからだ。まだ死ぬには若い方だった。この突然の訃報には心をやられた。遺体の顔がいまでも脳裏に焼き付いて離れない。衝撃的だった。今にも動き出しそうな、寝ているだけのような、そんな顔だった。これを機にわたしはぶっ壊れた。あんな状態だった私に学校に行けサボりだろと暴言を吐き続けた母も、これには同情し、共通テスト後の学校は休ませてくださいと電話をしてくれた。(その前に担任と揉めてさらに行きたくなくなったのもあったが。)友だち数人から学校来てないけど大丈夫?というLINEが何通も来ていたのを無視して、ベッドでひたすら夜が来るのを待つ日々だった。病院に半年後でもいいから予約しろと母に言われ、予約して通い始めてからは好調だった。時折薬の過剰摂取をするくらいで、思いがけず入った短大は楽しかったし、友だちはおもしろいし、鬱なことを吹き飛ばしてくれるような、そんな人たちだらけだった。執行部で仕事に追われて病んだときも、周りが励ましてくれるから死にたいまでは行かなかった。

いまもまだ躁鬱の波はあって、ハイテンションすぎるときもあれば、鬱でどうしようもなく涙が止まらない日だってある。けれど、あなたに出会ってからそばに居てくれる人の偉大さに気が付くことが出来た。わたしがずっとなれなかった1番にしてくれて、「大丈夫、そばにいるよ」と声をかけてくれる。それだけで救われるしこの先辛いことがあろうとも生きていてもいいかなという気持ちにさせてくれる。これを書きながら、1番になれないことを文字に起こしていく度涙がこぼれた。それほどずっとコンプレックスに抱えていたんだと思い知らされたけれど、今はあなたが1番でいさせてくれるからもう怖くない。
これからも、あなたの1番でいられるようにできる限り努力したいし、1番でいられるように頑張らせてほしい。
いつかあなたの1番じゃなくなる日が来るなんて考えたくないけれど、そんな日が来たとして、後悔のないように思いっきり愛を叫びたいし全身で伝えたい。
でも愛想尽かされないように節度は守っていきたい(笑)
ずっとずっと1番でいれたらいいな。

長い長い駄文をここまで読んでくれてありがとう。

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