ただSNSだった 2024/06/06
・大学内で通りすがったギャル5人が怖かった。ギャルの明るさにエネルギーを感じた。人気男性YouTuberグループの話をして、それに対しての反応が猫ミームだった。「〇〇(YouTuberグループ)の〇〇くんがさ〜」「まじ!?ハッピーハッピーハッピー!」エネルギーを感じた。エレクトロニクスを。ヴァイタリティーを。やはり人間として目指している場所が違うのかもな。今僕が日記を書いている横で、男2女3のグループが「胸の谷間を見せて歩く」ことについて声高らかに議論している。なんだそれ!くだらない!見せ乳なんて下品だ!つい聞き耳を立ててしまうような議論をするでない!そして君!「ウチ結構(胸が)ある方だから見せないのは勿体無いと思う」。うむ。良い発言だ。これに賛成する形で議論を進めたまえ。そしてその次は極度のミニスカについて議論したまえ。
・知らない人のYouTubeライブに入ってみるのが、最近のマイブームだ。自分の知り得ないコミュニティにひょっこり顔を出すのはなんとも気持ちがいい。今日は「ひたすら渋谷でナンパをする」配信に顔を出した。あまりにも住んでる世界が違いすぎる、のか?は?誰がどう見たって成功するはずなのないナンパテクニックだったからそう思った。誰も参考にはしないだろうな。ナンパはそりゃしたことない。する気もない。だが、この知らないナンパ師の配信で分かったのは、人生は数打ちゃ当たるの精神が大事だということ。
・原付バイクを購入してから、行動範囲がかなり増えアクティブになった。ということで学校終わりにユニクロ、GUに行ってみた。お金がないのに。ユニクロでゲーム「魔界村」Tシャツを買った。良い買い物。
・帰りスーパーに寄って帰った。一度も入ったことがないスーパー。夜ご飯を購入しようと寄った。スーパー、好きだ。親と買い物をした時を思い出す。母親が食材やら惣菜を見ている間に行くお菓子コーナー。買ってもらえるわけがないのに長めに見る小さい玩具のコーナー。ちっさいピンクのカゴを持ってね。懐かしい。この歳になって親と買い物に行くと、親と一緒に店内を回ることが多くなった。世間話やら、欲しいものがないかやら。カートを押してあげたりなんかしちゃったりね。今日はエビピラフを夜ご飯にしよう。
・スーパーの袋詰めをする台(サッカー台というらしい)には↑こういう雑魚の袋がついている。袋詰め用のやつ。小さい頃この袋は、子供が自分の買ったものだけを持ち歩く用の袋だと思っていた。親が沢山ものを買ってビニール袋に入れ運ぶ姿に憧れて、自分の身の丈にあった小さい袋でお菓子を運ぶのだ。
・今自分は何に力を入れているのだろうか?大学の制作?個人の制作?ラジオ?大喜利?はたまた日記?なんとなく全てがナーナーになっている気がするが。どうなんだろうか。全部真面目にはやっている。けど「エグ楽しい笑笑」と思ってやっているものはあまりないな。これってナーナーなのか?わかんないな。全力でやっているから良いのか。でもこのまま泣かず飛ばすはいやだな。
・最近友達間で僕の日記をよく話題に上げてくれるのだが、あまり正面から嬉しいとは思えない。内容が面白いやら読んでて楽しいという意見は、そりゃ嬉しいのだが…。僕は読んでくれている身近な友達に対して日記を書いているのでは?と一瞬錯覚してしまう。自分の日記のスタンスとして「自分の内の部分を文章化している」「その文章を書き溜めた場所がただSNSだった」というだけで、読み手を意識しているわけではない。だが頻繁に感想をもらうことで、「僕の日記は読まれているんだ、僕の日記を読んだ感想があるんだ」と、いわゆる邪念と言うか、本来の自分の日記のスタンスに沿っていない感情が生まれてしまう。どうなんだろうか。まあいいか。
・人として最低なのは、人の胸を自然と見てしまっていることだ。それは男女問わず。でもこれはいやらしい思いとかそう言うのではない。人と話す時目線をどこに置けば良いか迷うことがよくあり、目よりも下の方に自然と目がいってしまうのだ(ロゴが気になったり、すけべ心があるのだとは思うが)。今日記に書くことで、僕の直したいというか意志がわかっただろう。別に治したいとは思っていないが。
・世の中にはロジックやら法則では説明つかないようなこともある。僕はそれを素敵なものとしてみている。感覚的なこと。個人個人で抱く感情。思い。素敵だったら素敵。なぜそれが素敵なのかをちゃんと考える前の、内なる素敵を大事にしていきたい。