“お前に何百万かかった“と言う父を見て
両親との関係において、私が心をやられるパターンがある。
それは、私の聞きたくない情報を知らされることで、猛烈に不安にさせられることだ。
母が存命の頃は同い年のいとこについて「成績がどうだった」「美人だ」「優秀ですごい」などなど。なぜか私より彼女が優れているんだよということを報告してくるのが常だった。
驚くことにこれは、子供の頃から母が病気になるまでずっと続いた。
随分大人になってから「聞きたくない」とはっきり言ったのだけれど、伝わらなかった。
まるで「義務」のように私にそのような報告をしてくるのだ。
もしくは話題がない時には「あなた大丈夫なの?」とうまくいっていることすら心配してくるという感じだ。
父のパターンは少しだけ違う。
めでたいことや上手くいっていることを一回は「よかったな」ととりあえず受け入れたように見える。
でもその後、しばらくしてから「そういえばあれはどうなっている?」「俺はこんなに大変な目にあった」「油断するなよ」という電話をポツポツ思い出したようにしてくるのだ。
今日の電話では、税金の心配に始まり、「今の土地は一番高い時に買ったので大損した」という話になり、最終的に「お前たちを大学にやるのに何百万かかった。ボーナスが全部飛んだ」という、どう答えていいかわからない話になった。もちろん感謝はしているけれど、それ以上どうすればいい? 親孝行が足りないって言いたいのかな?
電話を切ってからしばらく胸が痛くて、全身の血の気が引いて寒くてたまらなくなった。
親なのに、まるで「子どもがうまくいかなくなるのを願っているような」ことを言うのは何故だろうとずっと思っていた。
これはおそらく無意識で言っていることだと思う。
親はずっと何かに怯えて生きてきた。騙されまいと警戒心満載で生きてきた。
地域柄、先祖代々そういった想いが受け継がれていると感じる。
「油断するな」「みんな敵だ」「うまくいくなんてあり得ない」「幸せだと感じたら突き落とされる」「罠だ!」
という疑心暗鬼が深く深く刻まれている。
心配されるっていうのは普通、嫌なことではない。
愛情の示し方の一つだとも思う。
でも、「心配しかされない」「否定しかされない」ってのはどうだろう。
子どもは「自分は不安要素ばかりの人生だ」と感じないだろうか?
多分、そういう地域、そういう親戚、そういう親に囲まれていたら、そうなる。
だから、私の親が特別そうだったわけじゃないと思う。
でもやっぱり「普通に褒められたい」「普通に比較されずに認められたい」「普通に安心させてもらいたい」という感情が積もった私には、もう心配は愛情ではなくなってしまっているみたいだ。
だから電話をもらった後はすごく悲しくなるし、辛くなる。
ただ今日はもう一歩引いて考えてみた。
「ずーっと心配という接し方しかしてこなかった親にとって、娘とのコンタクトの取り方はそれ以外になかった」
「自分の人生を振り返って、悔しいことが思い起こされてしまって誰かにそのフラストレーションを吐き出したかった」
この感覚がいっぺんに吐き出された時、子どもにとっては「呪い」になっちゃうんじゃないかな。
親も辛かった。
親も呪いを受けたから子どもにも同じことをした。
親も一人の人間で、私と同じくらい深い愛着障害を抱えている。
そう思えば、どうにもならないことだったんだって思う。
私が不安障害になろうが、PMDDを抱えようが、トラウマ症状で死にそうになっていようが、親には関係のないことなのだ。
だから私は親とのバウンダリー(自分と親との間に境界線)を引くことを習得しなくてはいけない。
親の電話でいちいち傷ついて泣くのは終わりにしたい。
自分と親は違う人間なんだ。
だから自分を癒して、今まで通り自分の人生を歩もう。
そう思った。
親が認めてくれなくったって、友達や仕事関係の人など、別の誰かが認めてくれてる。
愛されなかったと感じている場所は、今の家族(植物、環境、ご近所なども含む)がじんわりさりげなく埋めてくれている。
そう思えば、少しずつ「理想の愛をくれる親であって欲しい期待」を手放せる日も来るのかも。
まだまだかかりそうだけど……(汗)