東洋空想世界『blue egoist』観劇感想
2024年11月17日(日)~2024年12月8日(日)東京・THEATER MILANO-Za、大阪・オリックス劇場にて上演された東洋空想世界『blue egoist』を観劇しました。
哲学的な要素が含まれた個性的な現代風刺ダークファンタジー×ミュージカルでしたので、ぜひ多くの方に見ていただきたい作品です。観劇した感想を備忘録としてまとめます。
『blue egoist』とは何なのか
各キャストのファンクラブ限定招待のシークレットライブを皮切りにスタートし、あらすじ公開なし・開幕後もネタバレ禁止が推奨されていた本作です。現地観劇前は一体どんな難解な演劇なのか?ライブもするの?!と身構えていました。
観劇できたのが後半にあたる大阪公演だったので、ネタバレを踏みすぎないように常に薄目&高速スワイプでSNSを閲覧するなどしてストイックに過ごしました。
いざ当日の観劇、1幕終わりの休憩はパニックが起きていましたが、2幕の途中あたりで意外と等身大・現代に通ずる価値観の作風なんだなと自分の中で腹落ちしました。
しかしこの理解もわかった気になっているだけに過ぎない、「俺をわかった気になるなよ」という作り手側からの皮肉を込めたエッジを感じます。
あのドールたちが本体なんだけど、美しいケダモノたちの本質でもあるし、人間でもあるんだと思いました。私たちの人生にもかかわるテーマ・関係性で、それぞれこういう部分あるよなぁこういう人いるなぁってリアルな個性や長所や弱さを持っている。
だから『ブルーエゴイスト』青臭い自己みたいな感じのタイトルが当てられたんだろうなと思ったし、モラトリアム(≒ピーターパン症候群、大二病)って感じがしました。知らんけど。
小劇場でつくられる演劇のような土臭さが根本にありつつも、出演者さんに見目麗しい実力派を集めたからこそ演出できたであろう歌+ダンスパフォーマンス混じりのステージング、個性的でスタイリッシュなカラーで覆われていました。等身大な人間臭さとアーティスティックなセンスが入り混じる、無二の現代風刺作品だと感じました。
これは個人的なお気持ちですが、高校生〜大学生の二次性徴期を越えたモラトリアム時期の方々には特に見ていただきたいなと感じたし、感覚や感想を素直に書き出してもらいたくなります。教育資料となる素養すらある作品だと感じました。
論理的につながっているストーリーではなく、断片的でオムニバスのような感覚を抱きました。夢の一部分ずつを切り取っているようであり、時系列も入り混じっているファンタジー色の強い作り方です。
アートというよりは哲学寄りかなと感じるし、あらすじを書き出してもあまり意味がない、『観客が物語を通して何を感じ取ったか?』を重視する構造だと私は感じました。
キャラクターごとの感想
烏(福澤侑さん)
敬語・一人称私・眼鏡・スーツ・インテリの福澤侑さんという役満牌のようなキャラクターをお出しされてひっくり返ってしまいました。本当にありがとうございました。いのち、助かりました。
乾いているのにどこかぬくもりがあって、本当に烏っぽいと感じてしまった。 ゴミ捨て場で拾った鬼の子のことを想って別れる優しさはあるけど、別れるときに肩に置いた手がとても名残惜しく寂しそうで、本当に依存体質な母親のようだった。
烏と鬼、病んでるふたりの関係性が好きでした。病んでるのは烏だけかもしれませんが。明るくポジティブに見えてどこか倫理の轍から外れている烏の乾いた病み方が生々しくて好きです。わかりにくいけど良質な静のヒス構文でした。侘び寂びのお母さんヒス構文ですね。
烏はゴミ捨て場で拾った情報をたくわえる『耳年増』のような状態であったが、感情を強く揺さぶられた経験はない。だから長く生きてきたはずなのに、淡々としつつもポップでかわいらしい印象を抱きます。
感情のコントロールは、アルコールと似ていると思います。
酒を飲み始めた若者が自分の酒量の限界を知っているはずがなく、限界を越えて失敗してはじめて限界を知る。
感情とて同じで、バケツからあふれてはじめてリミッターが外れるもの。
SNS炎上で烏がキレてタブレットを叩きつけた瞬間の静寂、劇場にピンと張った空気は、烏が『感情の限界を越えた』瞬間を静かに描いていました。
客席に背中を向けて俯いたその表情を伺い知ることはできないが、背中の芝居だけで物語る異様な空気がピリピリと伝わってきた。
「まだありますから」みたいな台詞も静かに狂ってて怖い。電子機器を壊してもインターネット上のSNS炎上は消えないし、魚拓画像を取られたら無限に電子の世界で残り続けるインターネットの恐ろしさを、烏はどこかで理解しているのだろうな。物質は捨てられるけれど情報は消えないんですよね、無情だ。
このシーンが大好きで、福澤侑さんの演技力が本当にお見事でした。
"闇に烏"だ。暗闇の中でどれだけ表現しようが、叫ぼうが、暗闇の中では目立たずに何も伝わらない。白い世界に出れば、明るみに出る。SNSでバズった彼らのように秀でている面だって伝わる。異質なものは目立ち色濃く浮き出てしまうもの。
同色に馴染めば楽だけど目立たず地味な生活。人類が手に入れた脅威の武器“組織”の強力さにも繋がる気がするが、そんな同調力が本当に良きものなのか?という疑問を作り手から感じます。
小さなかわいい鳥時代から真っ黒で避けられ、人間社会にも馴染めず、くちばしを切り落とすものの中途半端なバケモノにしかなれない烏人。
知性や能力は烏らしく秀でているからゴミ捨て場で生きながらえることはできるけど、本人は孤独なんですね。異質な個体である自分を俯瞰して冷静に自覚できることって、それはそれで苦しいと思います。
烏は忌々しそうに「人間はすぐ物を捨てるんですよ」と言います。情深く、反転すると執着心の強い烏の生態系を反映したキャラクター像だと感じます。そして最後の分かれ道で、烏も育てた鬼の子に(事実上)捨てられてしまいます。
誰かの捨てたものは宝物なのに、なんで捨てられたものが可哀想みたいな基準なんだろうな世の中は、と私はこの台詞に開幕前から疑問を感じていました。
心とは、誰かが捨てた(振った)それで傷ついて研磨されて光っていく宝物なのになぁと。
私だって誰かにとっては捨てた荷物であり、自分が捨ててしまったものもあります。それは向けてもらう好意や人間関係や物質も含めて、たくさんあるのだと思います。
誰しもが誰かの捨てたもの、そんな視点は一見悲しく思えるけれど、同情や愛着を持ってすべてに接する優しさに繋がる気がします(思想です)。
捨てられた鬼の子を拾った烏は、母親のような優しさを持っていました。鬼の子を大切に育てて尽くしたけど、残酷なことにそれもある種のエゴイズムだったのかもしれません。
幼い子供にとって不可欠な愛情や庇護だけれど、甘やかせば子自身の成長を妨げる。多くの母親が自分と同じ失敗をして欲しくないという『人生敗者復活戦』を子に託してしまう。きっとこの考え方を多くのお母さんは受け入れがたいのだろうともわかる。
しかしもしかすると、真の意味で鬼の子を成長させることができるのは鬼の子自身でしかない、という谷底に落とす父の強さが必要であったのかもしれない。
そして尽くした先に自分と一緒に居てくれるかも、などと見返りを求めてはいけない。頭ではわかっていても注いだ愛情を受け入れてもらえなかった時、さよならを告げられた時、私たちは傷ついてしまう。
周りの鳥と見た目が違って恐れられた異端の烏人は、群れの中では除け者でひとりぼっちだったんだね。だから安心できる、存在を認めてもらえる居場所が欲しかったのかな。だから鬼の子を拾って育てて弱いものに施しを与えることで、自分の孤独も解消しようという発想に至ったんだね。心優しくて可哀想な烏。
これは反感を買いそうで心苦しい意見だが、鬼の子に「おまえも(顔を)やってもらうといい」と声をかけた烏は慈しみにあふれていたけれど、ある意味では傲慢だと私は思ったよ。
鬼の子は、醜い傷がついた顔を持つ『自分本来の姿』を認めて欲しかったし、ありのままで外の世界に出て勝負してみたかったんだと思う。
でも烏は自分が烏人という(鳥の群れや人間の価値観からみれば)異端な見た目で仲間からも人からも迫害されてきたから、鬼の子には見た目を世間的な『綺麗』に変えて、自分と違う安全で幸せな道を歩いて欲しかったんだろうな。そんな先回りでおせっかいな老婆心も痛いほど理解できる。
SNSで皆さまの感想を拝見していて、ここの顔を変える鬼を見守る烏の微笑みなどが『美談』として語られている様に私個人的には不気味でゾッとする感覚を覚えたのだが、どれも間違った感想ではなくて、それぞれがひとつの愛情の形の表れなんだろうなと感じます。
私は鬼の子の「俺のこと勝手に決めないで」という気持ちを一方的に膨らませて想像して、鬼の子に痛いくらい共感してしまった。『放置』も『過干渉』も『親が子供の意思を無視している』という点では変わりはないという臨床心理士の友人の言葉を思い出した。
福澤侑さんと立石俊樹さんの歌う『ガラクタ』は切ないポップさがあってすごく好きだ。苦しく悲しいのに、メロディはポップな感じでぐちゃぐちゃの情緒が人生という感じがする。福澤侑さん&立石俊樹さんの歌声の切なさ、力強さ、すばらしかった。
烏と鬼の子の別れの場面は切なくて、特に大好きなシーンです。肩を落としトボトボと力なく階段をのぼる切なくて可哀想な烏。
ふたりは同じ時を過ごしたんだから、鬼の言葉はなくとも、同じように大切な時間だったはずです。
幸せな経験・辛い経験はどちらも出会ったからできたこと。
そういう経験をしたからこそ自分ではない誰かの気持ちを考えられる、思慮深い大人になっていくってことなんじゃないかなと思ってます。
心が腐ることっていつでもできるし、人が腐るのは愛に触れていないからだと思う。でも烏と鬼のあいだに、確かに愛はあったじゃないですか。舞台の上にそういう温かい空気が流れていたと思いました。
置いていかれた烏は辛いけれど、角度を変えて見れば、『愛情を注いだものが手元から離れて巣立っていく姿を見守ること』もまた烏にとって成長のきっかけになり得るのではないかな。
鬼から『烏と過ごせて幸せだった』みたいなひと言があればまた烏の救われ方も違ったと思うけど、世の中で別れの痛みをきっちり精算・回収されることの方が少ない。大切な人が突然いなくなることの方が多いと感じます。
そんなときに自分の中で悲しみと向き合って、乗り越えて強くならなければいけない。この構造は世の中とまったく同じだなと思いました。
烏と鬼の関係性が男女恋愛で表現されていれば、もっと俗世っぽさとか雑味が混じってしらけてしまっていたと思うけれど、親子関係のようでいて異種生物同士の不思議な母性があたたかくてよかった。
戯曲が持つメッセージをうまく伝えやすくしてくれた気がします。
どれだけ一緒にいたくても、相手がそうではなくて離れなければならないことって人生ありますよね。そういった大なり小なりの出会いと別れの中で人は傷つきながら成長していくもので"違う存在なんだ"と知ることは辛いことなんだ。
烏は賢かったから、何歩も先を飛んで歩いて世の中を見渡せてしまった。だからあの美しいケダモノたちの中でまっさきに難しい課題が降りかかってきたのかな?と私は思いました。
先まで見えてしまうことはとても苦しく、でも痛みは成長して磨かれていくことの証明ってやつ。
福澤侑さんが考えてお出ししてくる役作りはだいたい刺さるのですが、烏人も可哀想で優しくて、愛おしさと同情を抱いてしまった。私もちょっとセンチメンタルに持っていかれてしまった。
もっともっと素敵な生き物になっていっておくれとエールを送りたい気持ちになりました。
鬼の子(立石俊樹さん)
立石さんの鬼の子、すごく良かったと思います。立石さんが幸村精市だった前世から一方的に存じ上げていますが、これまで拝見した中で一番立石さんが光っているような気がしました。
以前から私が立石さんに感じていた、表面の柔らかさの内側に滲むたくましい『強さ』がここに滲んでいるなと感動した配役だったし、私は作中で鬼の子の行動選択が1番共感できた。
営業妨害になっていたら大変申し訳ございませんが、立石さんは綺麗な見た目をしているけれど、気質的に男っぽい人だと思う。それが威圧感やオーラになるし、かっこよさでもある。
そういう勝手にいいなと感じていた部分がよく抽出されている役柄でうれしかった。
鬼の子は『怖かった』に尽きる。
①自分を捨てた母親にアポなしで会いに行く(お母さんの都合は考えない。十中八九やばい母親だからやめとけよ~~って焦ったけどお母さん幻想で会いに行きたくなるものなんだろうなぁ)
②冷たくされたから⚫︎す(アポなしでいく人の都合考えれない人ほど逆上して⚫︎したりしそう)
烏が母の四肢をバキボキにして箱に詰めるところ、ステージで肉塊落とすところ、いくら虚淵玄シナリオゲーム育ちの私といえども全部こわいよぉぉって頭を抱える感じだったけど、烏と鬼の子はポップな狂気が売りなのでGood描写でよかったなと。
鬼の子は母親の傲慢に当てられたから、自身もナチュラルボーン傲慢ボーイになってしまったのかもしれない。人はもらったものを返すだけ、鬼の子が母親からもらったのは愛情ではなく傲慢だった……因果を考えてしまう。
鬼の子の独特の演技がまた怖さを引き立てていて、可愛さと恐ろしさのはざまの狂気があって、よすぎた。捨てられる親・烏の切なさと、捨てる子・鬼の冷たさの対比がすごくよかった。リヤカーで子供引き連れてるのドナドナみたい。ドナドナオマージュだったのだろうか。
鬼の子は捨てられる辛さと捨てる強さと、両方持っているし、烏という親から独り立ちして別れる強さがある。ある意味では大人だし、一番子供。
烏が育てて成長した鬼には鬼の世界が広がって、狼と見る新しい世界、他の幸せが芽生えたってことなんだろうな。烏と鬼は違う生き物だから、お互いにとっての幸せの形も変わっていたんですね。狼と道を共にしないところもまた好きだ。
鬼の子が「顔を上げろ」と自分に言い聞かせる場面、気持ちが理解できすぎて泣いてしまいそうになった。恐ろしいんだけど前向きで、そういう別れの場面の複雑な感情は何回経験しても辛いし美しい。そんな風にごまかさずに離別を選択できた残酷で強い自分が好きになれそうだ。観劇中は完全に鬼の子にシンクロしてしまった。
鬼の子は、ゴミ捨て場で拾って育ててくれた恩義があるはずの烏にはついていかずに、狼との出会いの中で自身の道を見つけてそちらを優先し、行く道をわかつ。
そしてほとんどの人も『本来の自分』として人生を生きようとする。でも鬼の子のように上手い落とし所に着地して理解者に恵まれる人ばかりではないし、自分のあるがまま生きて立場や機会を大幅に失ってしまう人も多くいるのが現実だ。この部分は現実の役者さんにも重なる皮肉みたいだなと思った。
『不iction』として表の顔のフリをして役者をやり、しかし彼らには素顔やプライベートという現実がある。
ではファンは、そんな彼らの『本性』を受け入れられるのか?表現者はそんな表の顔と現実との乖離に狂わず割り切れるのか?その構造は果たして健全なのか?
『不iction』で肉塊を落とさせた鬼の子はなぜそんなことをしたんだろう?観客に自分たちの『本性』を見せた時にどんな反応をされるのか、見てみたかったんじゃないかなと私は思った。
そんな残酷な好奇心に葛藤するメッセージが読み取れるような場面を、勇敢に現実を生きる立石俊樹さんに絡める皮肉を感じてしまった。私個人的には、鬼も立石さんもすごくかっこいいなと思う。
遠い未来かもしれないけど、鬼の子が成長して育ててくれた親への感謝を自覚し理解できればいいなと願う。
狼(阿部顕嵐さん)
狼と人間のハーフ?伝承の狼男?長渕節の弾き語りが綺麗な顔とのギャップを覗かせる、男性臭いキャラクター像であった。
いい子なんだけど、精神的に幼い印象を受けた。いい子でも精神が成熟していない、知性が発達していないと単に『何も知らないから、いい子』であり重みや威厳には繋がりにくく、舐められやすくなる。
人間の生活にも当てはまるけど、狼は微妙な発言のコントロールや受け取り方や発信の仕方がちょっとずつずれているんだな、と観劇しながら感じた。
いじめは被害者からすれば意味不明で最低最悪なことだが、どんな世界・村社会・職場・学校生活でも発生し続けているだろうし、けっこういじめを経験している人は多いんじゃないかな?(そういうことをする人が世にいると知れる人生経験の機会でもある)
この世は相対性だと思う。人のいる場で生きていきたいならば相対性の価値観や摩擦が必ず付きまとってくる。狼さんはその客観的な視点を俯瞰まで落とし込めていないから、かなり辛そうだったし、見ていてしんどいいじめ描写だった(個人的な癖で人の指を投げるいじめ狼役の福澤侑さんはすごくよかったが)。
共感性が低くて申し訳ないが、ああいう直接殴ってくるいじめより陰湿な陰口のほうが個人的には嫌いなので、殴られたなら直で殴り返せよ!と見ていて思ってしまった。。狼さんがやったみなごろしは『キレた』に近かった。
俯瞰の視点や相対的な視点がない人は『生きづらそう』って思ってしまう。
誰にだって適した水場があると私は思っている。狼さんもはやくオタサーの姫理論を手に入れた方がいい(究極の相対性理論)。やっぱり、異端は田舎の村から出るしかないんやで。魔石探しの旅に出よう、我々オタクのように。。。
blue egoistのパフォーマンスを楽しんでいた観客だが、ステージに肉の塊がボトッと落ちてきてそれを狼男が貪り食う衝撃の場面を目撃させられる。観客は混乱し、配信視聴者コメントによりSNSは阿鼻叫喚に包まれ炎上する。
ある意味では狼男の本性の部分が見えてしまっただけなのだけれど、その場面は表舞台に立つ表現者のプライベートが流出して炎上する様子にもかかっているメタファーのようなものを感じた。狼に人肉を貪り食う行為を仕組ませたのが仲良しだった鬼の子だということもなかなかの皮肉だ。
吸血鬼(七海ひろきさん)
顔肉体はめちゃくちゃかっこいいのに女性的な性質を感じた、麗しすぎる吸血鬼。ひろきお兄さまに吸血鬼は似合う似合う100満点優勝ビジュだと心の中のモブキモオタが大暴れしてしまった。
女性なのに綺麗系男装でだんとつイケメンってどういうことなの??情緒がおかしくなってしまいました。好きです。
吸血鬼はよく言えば共感性が高くて優しいのだが、正義感はあるけど本質的でない発言ばかりして、のれんに腕押しみたいな人だと思った。悪く言えば偽善っぽい。女性的な気質の一長一短さがあるし、共感性が低い自分は観劇中けっこう「この人何言ってんだ?」と思った。
血まみれの食事に対して疑問を抱く善性が高い倫理観は素敵なことだが、その汚いディナーを口にしないと満足に生きられない家族のこと、ちゃんと慮っていたのか?何も考えないまま正義感の発言をしているならそれは無責任だし、エゴイズムだと私は思う。
貧しくも美しいお嬢さん(扮する福澤侑さん)に綺麗な洋服を繕ってあげたのに、本能に抗えなくて惚れた女性の血を吸って殺してしまう吸血鬼の悲劇はこれ見たかった1000000感があって素晴らしかった。
ぜったい欲しい描写だと、吸血鬼萌え属性がない私からしても、オタクなので察することができた。
6人の別れの場面、吸血鬼だけ「きっとまた会える!」って自分を奮い立たせるみたいに言っていたのが印象的だった。そう言わないと後ろ髪を引っ張られて別れられない弱さがなんとも優しい。
また会える保証なんてないのに。私は大事な局面で無責任なことは軽々しく言いたくないタイプだからこの場面でまた会える!みたいなこと言わんほうがよくない?!と観劇中に焦っていたけど、こういう人が場を和ませるクッションになって人間関係ってうまくできてるんだろうなぁと思った。
また、ファンの熱い需要に応えた漢気あふれる福澤侑さんのお嬢さん姿、あっぱれでした。観劇の直前にディ●ニーヴィランズのパレードをみながら「これの福澤侑さんverたのむ!」と願っていたのですが、まさかのその女性ダンサーverの概念が浴びれてサイコーサイコーサイコーでした。
さすがの表現力でお嬢さんらしい動きやダンスを披露する福澤侑さんがお見事でしたが、七海ひろき♀(吸血鬼)×福澤侑♂(お嬢さん)という神カプ(?)にファンとしては「どういうこと???」の連続で情緒がめちゃくちゃだった。めっちゃいい。ステージブロマイド(売切れすぎ)、買いました。なんなの?
蜘蛛(高橋怜也さん)
凡庸の象徴?
無課金で家の隅っこに巣を作って集まるのにすぐ文句を言って摩擦を起こす意味不明さ。蜘蛛って害虫を食べてくれるんだよ、という理論を頭ではわかっていてもキモいのが蜘蛛の巣である。
うわこういう人いる~!と唸ってしまったキャラクター像ですが、高橋怜也さんの上手な歌声と顔の綺麗さで一周回って愛くるしい、みたいなナイスキャラだと思いました。ヤーンッおもしろすぎました。
高橋さんはなぜこの顔面レベル(中顔面短いし、イケメンだし)でオチ担当みたいなポジションができるのだ??いいキャラクターを持ってる役者さんですね。私は集合体がちょっと苦手だから蜘蛛の集合体と聞いて警戒していたが、かわいいナイスキャラだった。
非常食の野菜を持っている真面目さやみんなにわけてくれる優しさはあるんだけど、結局どうしたいの?って聞かれても癇癪起こしてて自分の考えまとまってないし物事もよくわかってない感じが小物感になってしまうのだろうか?
不気味で美しいビジュアルなのになぜか憎めないかわいさが醸し出ていたのは、高橋さんの持ついい人間味みたいな部分のおかげじゃないかなと感じました。
キャベツのおかげで日替わり要素ができていてファンの皆さまがよろこんでいる感じがよかった。
90年代女性歌手ダンサーみたいなヘアメがすごく似合っててかわいかった。
狐(後藤大さん)
狐は不憫だなと思うしやってることは共感できるのに、捉え方が難しいキャラクター像で、自分の中でうまくのみ込めていない狐さん。
家族でひっそり生きていてみんな人間に殺されて、やられたからやりかえす!真似事だ!って人間を撃つ行動原理を理解できるはずなんだけど。なんかうまく頭に入ってこなくてぐるぐる考えてしまう。これが人間関係でも起こりうる理解しにくい価値観みたいな感じなのかな?
やられたらやってまえ!という気持ちと、復讐は何も生まないだろ……って気持ちが同時に存在して狐の行動が安直に思えて、手放しで認めることはできないな。狼が村の狼皆殺しにしたのはいいやんって思ったんだけどなぁ。
もしかすると、紙をビリビリ破る、銃声の大きい音を鳴らす、風船割るみたいな系統のびっくりが苦手だから、K・I・T・S・U・N・Eに割り振られた演出が肌に合わなかったのかもしれないです。ヒプステやLIVEの爆音が大好きレツゴーレツゴーでいけるのに大きな音が苦手って、自分でも意味がわからないんですが、本当に不思議な体験をさせてもらいました。
絵をかいたり狐の仮面使ってみんなでダンスしたりとか後藤さんのアーティスティックさを活かしていて華やかで素敵な演出だったのですが、自分には合わなかったのかなと。
舞台演劇って五感で受け取るものだなぁとしみじみ感じることができる存在だった。絵が上手い感じと、ふわふわ浮世離れしたアートな雰囲気が狐の演出に合っている役者さんだと感じた。
脚本について(小沢道成さん)
最後の離別の部分、私は当然みんなの成長のために別れるべきだろう(しんみり)と思ってみてたけど、SNSで目にする感想は別れに対して悲しんだり嘆いてる意見が多くて素直にびっくりした。
こういう部分が自分のマジョリティとの違いで自分らしい価値観なのかなと感じたし、発見があるコンテンツはたのしいです。
本作は根本的に東洋的価値観があると感じました。
鬼の子が最後で語るグッとくる自立ポエムに集約されていたけれど「目を閉じればそこに……」的なメッセージ。
経験の中で成長していくのが人生の旅。縁や自己の内観で人生を紡いでいこう思い出を胸に!という方向性のストーリー運びを感じます。
ふわっとコインを投げたまま、コマが回ったまま結末が決まらずに終わるラスト(メリバともちょっと違う)なので好みが分かれそうですが、私は大好きでした。
東洋的な価値観が根付いている受け取り手にとっては、自己の解釈によって希望のある前向きなラストとなりうるんだろうな。その感覚がない人にとっては別れの寂しさだけ心にぽっかり穴が空いてしまいそうだなぁと思いました(優劣ではなく考え方や捉え方の質の違いだと感じる)。
そういう空虚はやっぱり苦しいものだから、経験を積んで考え方を工夫して、思い出でぽっかり空いた心の穴を埋めてなんとかごまかしつつでも生きていくのが人生なんじゃないかな、と私は思っています。
6人には思い出という大切な財産ができました。
みんなも顔を上げて一歩踏み出して生きていくしかないんだろうな、と切なくも晴れ晴れとしたラストでしたし、6人のことを好きになれたから寂しくなりました。
答えがないような部分に対して、受け取った人が「なぜ?」を見出していくことに意味がある。物語や空想は究極の虚構で無駄だけれど「考える」ことを与えるために物語が存在するのだと私は捉えています。
またそのきっかけを与えられるような物語を『質の良い物語』だと捉えています(なのでハッピーエンドよりも、虚淵玄エンドのほうが好きです)。
表現のオリジナリティが高く、他の舞台やミュージカルの模倣や表面的なかっこよさのパクリではなかったところが特に素敵だと感じました。
私は演劇に関してはまるで素人ですが、だからこそ舞台を受け取るときに、板の上の熱量や役者同士の空気感などの目に見えない部分をよく感じて、見ようとしています。
同じ事象でも表現する人が違えば、それが文章なのか音楽なのか怒りなのか悲しみなのか方法が変わるはずです。
表現を演劇でやる意味があるとすれば、生の劇場の肉眼や空気を通してプラスαが受け取れる部分だと思っているし、それを伝えてくれるコンテンツが好きです。
「事実」はある、しかし「ただあるだけ」なんだと思います。
その現実に向き合う個々人は別の人間で、違う経済力の家庭や性別で生まれて、何もかも違う環境で育って「事実」への感じ方や何に価値を感じるか、同じはずがないと思う。
別の存在なのだから、事実も受け取り方が違うし、だから正義や悪への定義が違う。表現も好みも違う。
だからこそ『想像しましょう』ということだと思います。結果様々なエンターテインメントが世に生まれているし、6人がいのちの旅で学んだ最たる財産は想像力という愛なのでは。
演出について(松崎史也さん)
信頼の松崎史也さん。スタイリッシュで大掛かりな世界観が素敵でした。近代的デザインを彷彿とさせるステージが好きでした。
烏が落ちるところ(羽根が舞って飛んで見える)の演出、高い所が苦手そうな福澤侑さんに毎公演やらせるのは鬼畜だなと思ったけど、かっこよくて好きでした。
公演グッズの"会場限定チケット風カード"は東京・大阪公演でデザインが分かれている。作中でパフォーマンスが披露される『blue egoist』のチケットを我々観客が実際に購入し、会場に足を運び実際に観ているようなイマーシブ演出が洒落ていました。
しかしキャストは自分たちを取り囲む客席の群衆を、得体の知れぬものを見るような目で眺める。我々観客は『森』『人間の世界』の有象無象でもある。
ステージを構成する外部の要素からも観客をストーリーの一部として巻き込むイマーシブな脚本・演出が光っていました。
モラトリアムを描く小劇場的な演劇要素は、演劇への造詣が浅い私がダイレクトに受け取るのはけっこうしんどいことなのですが、ライブの要素が入っていたのは構成が助かるし上手いと感じました。
セリフや会話や歌のやりとりの間は演劇好きのチューニングを感じたけれど、隙間に差し込まれているライブや歌の流れが演劇素人一般人にも食べやすい味付けになっていて、ありがたかったです。
アンサンブルの役者さんがおらず6人の出演者がすべてを担うので、観客としてはかなり見ごたえがありました。出ずっぱりの場面や公演数が多く、出演者さんにとってはかなりハイカロリーな仕事だったと思います。本当にお疲れ様でした。
総括
"令和ダークファンタジー"として描かれた本作ですが、イソップ物語的なポップな味付けでどうぶつや伝承のいきものを通して描かれていたけれど、現代風刺作品だと感じました。
コミュニケーションの摩擦は今にはじまったことではなく、見た目の差別や思想の違い、ささいなきっかけが原因ですれ違いが起きるし、家や群れを追いやられるし、いじめは発生するものだと思います。
『blue egoist』作中でも象徴的に描かれていたSNSですが、SNSは私たち人類の生活を豊かにし、同時に追いやる取り扱いの難しい諸刃の剣だとも感じます。
なぜなら、ほんの数十年前までは地域性や学歴などで線引きされていた社会が、インターネットという電子で繋がる世界ではすべての階層が同時に流入してくるからです。知性、考え方の癖や偏見、経験値などがボトムからトップまで存在するインターネットはまさに人種の坩堝であり、「同じ日本語なのに話が通じない」みたいなことが起きるんだと思います。
ノーダメージでSNS社会をくぐり抜けていくには、相当な感度を要すると考えます。SNSを使いこなすのはハイクラスなコミュニケーションだし、ちょっと目立てば炎上して当然の世界なのだと思います。
そんな現実の世界に対して「なんで俺たちが否定されなきゃいけないんだ?」という納得しきれない葛藤を、役者・表現者である舞台に携わる彼らの苦悩に重ねるように、皮肉混じりにぶつけた作品だと感じました。
表舞台って、「思われてなんぼ」だけど、「思われるほど辛い事はない」のような商いだなと改めて考えてしまいました。
「優しい世界になったらいい」という制作サイドからの願いはもちろん同意だし、そうあって欲しいと私も願うけれど 、私の価値観だともう少し厳しく斬り捨てる必要があると感じています。
その「みんな優しくなろうよ」スタンスだと、特に人気稼業の方は傷ついて潰れてしまう危険が高いだろうなぁと。
人の感じ方を変えることはできないので、ある程度割り切った考え方を取り入れたりしないと、自己効力のないものに振り回され心が疲弊して潰れてしまうから。
誰立場やねんという感じですが、制作のみなさまや役者さん含め、SNSの声に振り回されすぎないように現代SNS社会を生き抜いて欲しいなと感じた。
そして作中に出てくる『綺麗な世界』というキーワードはどういう意味なんだろう、と観劇しながらずっと考えていました。
作中で語られる価値観は外殻に反して意外と等身大で、素直さと矛盾と幼さと皮肉みたいな要素が詰まっていて、それが安い表現になってしまいますが"演劇っぽいな”と殊更感じました。
シェイクスピアは『綺麗は汚い・汚いは綺麗』という価値観を後世に残しましたが、価値観とは見る(観る)人の「本心ではどう捉えるのか?」というような本質的な視点を突いているのではないでしょうか。
演者の6人皆様がそれぞれ個性的で美しい者だからこそ演じられるテーマでした。
6人(匹?)が葛藤していた様は、人間社会だって変わらずあることです。それは芸能界という世界で這い上がり板の上に集まる美しい『持てる者』の役者さんも、通ってきた険しい実体験の道でしょうか。
凡な人間が演じたってこの説得力や凄みは出ないだろうなと感じました。不気味さと美しさは紙一重のような部分があり、綺麗なものほど説得力の厚みを増すのだとも思いました。
また、私の好きな没入型ってイマーシブって言うんだな、と本作のインタビュー記事を拝読して知りました。
好みの違いだからそれ以外を否定するわけではないけれど、エンタメがあふれかえる昨今、劇場に足を運んでもらう意義ってシンプルな「演劇」では弱いのではないかと私はビジネス的な側面から感じています。
他のエンタメと差別化するならば、そのイマーシブ的な観客参加型・生の体験に付加価値をつけることかなと。
例えばアニメや漫画の原作ファンならば、原作関連イベントやアニメを楽しめば完結できてしまうけど、2.5次元は『キャラ扮装した生の人間』が特別な価値を生んでいるのだと感じますし。
本作にて初めてプロデューサーを務めた阿部顕嵐さんの視座の高さや先見の明っぷりを感じました。
私は幼少期から人様の書いた"生の文章"が大好きなので、本作上演期間はSNSにたくさんの感想が流れてきてうれしかったです。観劇後にわくわくしながらSNSで感想を読み漁ることができました。
生の文章にたくさん触れられて、大変有意義な機会でした。いいものを観劇させていただきありがとうございました。
東洋空想世界『blue egoist』公演概要
東京公演:2024年11月17日 (日) ~ 12月1日 (日)THEATER MILANO-Za
大阪公演:2024年12月6日 (金) ~ 12月8日 (日)オリックス劇場
演出:松崎史也
脚本:小沢道成
プロデューサー:阿部顕嵐
公演の様子やクリエイティブの裏側を収録したBlu-rayが7月25日(金)発売決定!
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