日記のような何か④「人に会える今のほうが、寂しい」後編
寂しさを解消する行為は、だれかを愛することととても似ている、
似ているが、全く異質なものだ。
例えば「会いたい」と思うこと、そして恋人に「会いたい」と連絡することは、愛か、寂しさか。まだわからない。
この時、恋人が忙しくて会えなかったらどうだろうか。自己の寂しさを解消できなければ、別の友達や、あるいは浮気相手に連絡をするかもしれない。これは寂しさを解消する行為である。
しかし、ひとは愛と寂しさをよく間違える。その結果、自分を傷つけることになっても、その寂しさがなくならない限りはその行為をやめられないのだ。
それをよく体現しているのが「メンヘラ」と言われる人たちである。彼女(彼)等は愛に飢えている、寂しさを解消できないでいる人たちだ。
彼女等は自傷行為によって感情満たすことで1時的に寂しさを緩和させているに過ぎないが、寂しさがなくならないので止められないのだ。
寂しさの会得から明日で1週間が経つ。
結局、人間の脳は都合よくできているので、1週間もたてばあの熱烈な寂しさは、お風呂のお湯くらいまで薄れてしまって、今ではそのぬるい水の中に潜り込み、何が含まれているのか発生源はなにか、なんて考えられるようになった。
そして今思うことは、寂しさは、喪失感とそれを恐れる気持ちではないか。ということだ。
何かを得ることは、得たものの代わりに何かを失ったり、いつか得たものを失う可能性を手に入れることに他ならない。
その「何か」は、人についても言えることだ。
人を手に入れて(仲良くなって)しまったら、失う可能性がある。
私の大好きな彼女は、儚い存在だった。
一瞬で失われてしまうような関係性、不透明な感情。「ミステリアスな方がいいでしょ」とほほ笑む笑顔の奥にある感情を推測しては、失うことを恐れて、差しさわりのない返事を繰り返していた。
失わないようにするのは苦しみを生む。いつか必ず訪れることだから。
彼女が「わたしはいなくならないよ」といってくれれば幾分か楽になるかもしれないが、きっと、わたしはその言葉も疑って不安な気持ちを募らせるのだろう。
だから、寂しさを解決するためには今まだ失っていないこの時間に、できるだけ愛を注ぐことだ。寂しさ(失う怖さ)なんて考える余裕もないくらいに。
結果的に、それが別れまでの時間を延ばすことに繋がっているような気がするし。
今この時、私があなたを好きでいるということを伝えるために、心地よい関係であり続けるために、何ができるのか。
模範解答かは知らないけど、どうやって愛を伝えるのか考えるのに忙しい今のほうが、寂しさでいっぱいのときよりも幸せだから、多分正解。
寂しさを愛でごまかすのではなく、
誰かを愛することで寂しさから抜け出せたらいいな。
わたしも。これを読んでいるひとも。
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