日記のような何か③「人に会える今のほうが、寂しい」前編
人は一人では生きられない
小学校の先生がよく言っていたこの言葉は「みんなで協力して生きましょう」という文脈の他に、
「人はみんな寂しい気持ちに耐えられない」という意味を含んでいると今、ふと思う。
わたしは人と比べて寂しくなることが少なかった。と言うか、熱烈に寂しいと思ったことがなかったかもしれない。もうだめだ、死にたいな、とは思っても、冬の寒さに人肌恋しくなる気持ちは理解できずにいた。
恋人に「寂しいから構って」と甘えたりもしなかったし(それが原因で2人の恋人と別れることになった)1人でいることも得意な方だった。1人遊びの方が楽しいし、勉強と仕事をしていれば時間なんて一瞬でなくなってしまった。
いつも何かに追われていて、寂しくなるための時間がなかったのかもしれない。
自粛期間も人に会えないことによる寂しさは感じることがなかった。(もちろん、電話をする友達がいたというのはとても幸運なことだったが。)
そんなわたしが、対面で人に会えるようになったこの時期に、ひどく寂しさを覚えている。自分でもよく分からないと思う。
忙しさはこれまでとは変わってないし、むしろ新しい仕事をいただいたり、睡眠時間は削られていく一方だ。
この寂しさを自覚したのは、友人の家に泊まりに行った時だった。
彼女はわたしの興味がないテレビに夢中で、構ってもらえないわたしは彼女の家にいるのに別の人のLINEを返していた。全ての返信をし終えて、彼女の背中を見たときに、寂しさに襲われた。
こんなことで寂しくなるのか、体が脱力し手に持っていたスマホを床に落とした。
その時の彼女の意識の中に、わたしがいない、それがこんなに寂しいことなのか、と思った。
でも、そう思ったのも一瞬だった。
その後も普通に楽しく2人で話したりご飯を食べたりしたし、先に眠ってしまった彼女の顔を見ても、そこに寂しさは現れてこなかった。
だからわたしは、突風のようにすぎていく感情を、ただ過ぎていくものとして見逃した。
しかし、次の日から、1人で過ごす時間、特に、楽しかった時間を思い出した時に、楽しい気持ちと共に寂しさを伴うようになった。
仕事や課題でもっと忙しくして、思い出せなくすればよかったのかもしれないが、一度現れた寂しさは何度も反芻されわたしの脳内を占領し、課題も仕事も半分上の空で、締め切りやノルマを守るのに非常に努力を要した。
誰が言ったか、悲しみによって人の痛みが解るように、寂しさは、自分以外の存在の大切さに気づかせてくれるために必要なものだ、と言う言葉を思い出した。
では、一度自覚してしまったこの寂しさはどうして解消すればいいのだろうか。いつのまにか、ぱっと消えて無くなるものなのだろうか。
つづく
6/19追記
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