執念があればどの分野も一生遊べる文化祭
最近の夏と冬の過酷さからか、春と秋ファンが増えている気がする10月。みなさんいかがお過ごしですか。
寒いのかなと思ったら日向は半袖じゃないと過ごせないくらい暑く、暑いのかなと思ったら昼過ぎの風が吹くだけでもうニットが必要な気持ちになり・・・それでも薄い上着一枚で全てが解決するような、秋ど真ん中が好きです。
今日もいそいそと焼き芋の皮をむいています。
友達が「遅れちゃったけど誕生日プレゼントだよ」と持ってきてくれた名門どころの焼き芋の箱(2キロ)。皮をむいて一口サイズに切って、150グラムくらいに小分けにして冷凍しておくと、これからしばらく先の私が喜びます。
自分へのお弁当だなあと思いながら、お弁当という概念を自分へも使えるということにふふっと嬉しい気持ちになります。
友好範囲の変化もあって最近は中高の文化祭なるものに足を運ぶことが増えました。
最近3校ほど中高一貫校にお邪魔して、若いエネルギーと正面衝突してきたのですが、どこも花形はダンス部でした。
絶対にあんなスピードでは動かせない腕や足、あんな柔軟にはできない開脚、あんなに舞台上で弾ける笑顔もできなければ、5〜7人のチームで踊りを構成する熱量も持ったことがないので、ひたすら「すごいものを見た」と感動するばかりでした。
みんなプロになれるんじゃないの?!
経験がなさすぎてすぐそう思ってしまいますが、「テレビで見るプロのように上手い」という中にも階層があって、「このくらいじゃまだまだ」みたいなのが99層あったうえで、その一番上の100層目をテレビで見ているのでしょうか。
どこの学校でもたいてい美術部があるのですが、最近は同時に「イラスト部」や「作画部」なるものがあります。
つまり彫刻を使ってのデッサンやクロッキーを必要とする美術部とは別分野として、主にデジタルツールを使ってイラストを描く部活が存在しています。時代の変化は「絵を描く」という分野の解像度を上げました。目指す上手さにも色々あるのです。
ダンスよりはよほど「やったことがある分野」なので、最近の中高生さんはどんな絵を描くのだろうと脳のどこかの通気口がパカリと開く音がします。
ダンスを見る時は、そこからほとばしってくるのがどんな香水か催涙ガスか煙幕かわからないのでうまく開けられなかった通気口です。
それが素直に開くので、「絵を描く人々とだったら通じ合える空気があるだろう」と私が思っていることがわかります。
12〜18歳の年齢の皆さんの絵は、いろんな段階の意欲と課題がプリンターで出力されていて、壁に狭しと貼り出されていました。
大人の悪いところは自分の子供の頃のことをすっかり忘れて偉そうにしてしまうことですが、カラーイラストなんてろくに書いたことがなかった私の12〜18歳の頃に比べたらみなさんとても上手で、見られることを前提としてそもそもモノを見ていることが伝わってきます。
「見られることを前提としてモノを見る」というのは「いのまたむつみ先生のように見られるには、どういう工夫をしたらいいだろう」と思っていのまたむつみ先生のイラスト集を穴が開くほど見ていた自分にも覚えがある感覚で、一定のところまで上手くなる近道です。
そのうえで、やっぱり目を惹かれるのはどんな作品かというと、やっぱり絵から執念深さが感じられるもの。
自分の絵を誰より見ていると感じられる作品の密度というのはやはり作品を磨くというか、のりたま(ふりかけ)の黄色いやつのようにうまみとしてまぶされた狂気のようで魅力的でした。
ある女優さんが「美しくなりたかったら家中に鏡を置きなさい」と言われて、家中に大きな鏡を置いたらどんどん美しくなった、という話を聞いたことがあります。
美しさのために「自分の顔を毎朝鏡で1時間見なさい」という育てられ方をするとも聞きます。
自分の顔が今どんな状態なのか、肌の状態や、眉のバランス、産毛の生え方、横から見た姿勢、眼球の透明感、首の長さ、皺の深さ、怒った顔、笑った顔、人からどう見られているか、それらにとことん向き合う経験を常人より繰り返すのです。
カラオケでもスポーツでもなんでも、自分のパフォーマンスを録画して検証するということが上達には不可欠だと言われています。
絵を描く人の執念深さはどんなところから見て取れるかというと、「この絵をこの人は何度も反転させて確認して書いているな」とか「めちゃくちゃいろんなポーズを試さないと到達できないポーズの絵を描いてるな」とか、「これでもないあれでもないと探してきた迷路の末の今現在」という絵はやっぱりわかるんです。
これが「よくある絵」になってないか検証してあるし、自分ができる今現在と向かい合ってる時間のかけ方なのかが伝わってくる。
ダンス部のパフォーマンスを見ても思ったんですが、人とダンスを揃えようと思ったら鏡の前でたくさん一緒に踊る練習を重ねたはずです。ダンスを録画して家に帰って「ああ〜〜私ワンテンポ遅れてるな。腕の角度がちょっと低かったな」なんて確認を重ねたはずです。
気持ちよく踊ってるだけでは踊りは揃いません。
美人はそのままでは「女優」になりません。
磨くというのはできるテクニックを増やしたり精度を上げたりするうんと前に、猛烈な執念で「見る」ことを必要とします。
ものすごく不自由。ものすごく縛られるし、鏡に囲まれて八方塞がりみたいな思いをして、よく言われる10000時間の法則の後に、「鏡がなくても美しい私」になるのでしょう。
「執念」としか言いようがないその感じが私は昔から好きなのですが、それは生きているエネルギーの強さを、魂の重さ、志のバネのように思っているのでしょう。
自分にもそのパワーがあるといいなと思うのですが、最近は執念深く頑張ると「絵が込み入ってて情報量が多くて漫画が読みにくい」と言われることが増えてきました。
スマホの画面に宿ってちょうどいいくらいの執念ってどの程度・・・?と出力のダイヤルの微調整を迫られています。
でも「絵が好き」で始めたであろうみなさんが、一枚の絵を文化祭に向けて描き切っている尊さに、ダイヤルで調整なんてせせこましいこと言わずに出力全開でいかなきゃだよ、と思ったりもするのです。見られることよりまずめちゃめちゃめちゃめちゃ見るのだよ。
家にどれくらいの鏡があるかなんかなんて、人にはわかりません。
イラストが好きで絵を描くのが好きで、あたらしい世界のデジタルツールにワクワクして、何枚か描いたら綺麗な色が出て、自由になんでも「プロみたいに」描けると思ったちょっと先に99層の階層があるとしても、
小さな通気口でつながった私たちは、執念を目減りさせることなくゴリゴリとサンドペーパーで研磨していかねばなりません。
今日も踊る楽しい地獄。執念があればどの分野も一生遊べる文化祭です。
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末次由紀のひみつノート
漫画家のプライベートの大したことないひみつの話。何かあったらすぐ漫画を書いてしまうので、プライベートで描いた漫画なども載せていきます。
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