恋する京都と「描くことと描かないことの差」
過酷な夏にその多くを奪われている最近の秋ですが、みなさんいかがお過ごしですか。
目減りしてしまったとはいえ、暑くもなく寒くもなく昼と夜の温度差もさほどないという優しい秋を感じる数日を過ごしています。
嘘です。陽の当たる日中に31℃を記録してまだまだ去らないゾンビ夏も体感したりしています。
ここは古都京都。昼間の百鬼夜行です。
観光と取材の旅には明確な違いがあって、自分自身は同じはずなのに世界を見る目がグルンと変わる思いをしています。
昨日は私は恋をしながら歩いていました。
正確には私は私じゃなく、恋をしているであろうキャラクターになっていました。
そうするとどうでしょう。
なんてことない景色が全部意味のあるものに見えてきます。
空を横切る飛行機雲を見ては、「あの人のところまで飛ぶのかな」と考えているし
自転車を見ては「可愛い5色の自転車が並んでたよって見せたいな」と考えているし
「学食のメニューはこんななんだよ。好きなのあるかな」と考えている。
自分を一旦脇に置いて、目が心臓が違う人になっている。
恋、または失恋をすると、世の中の多くの歌が全部自分に刺さりまくる経験をしたことがある方は多いと思います。
ちょっと前まで聞き流していた歌が全部
「おまえの顛末を歌にしてみたぜ〜〜〜!」
「おまえの涙のわけを知ってるぜ〜〜〜〜」
「本当の哀しみ知らなかったろ〜〜〜いまならわかるだろ〜〜〜」
「この思いがあっという間に消え去りそうで怖いだろ〜〜無常だろ〜〜」
と訴えかけてきて、まるで当て書きされたかのような歌詞に精神のかさぶたをがはされまくる経験。
でもやめられなくて泣きながら何度も聴いてしまう恋の歌。
水をたっぷり含んだ筆で濡らした紙に、淡い桃色と紫と空色の絵の具を優しくたらした後のにじんでいく広がりのような、ぶわあっとした止められない拡張がそこにはあります。
好きな人ができると、自分がにじんで拡張するのです。
好きな人ができると、自分の芯が侵食されるのです。
考えることが広がって、特に推しがいる人なんか思いが迸って止まらなくて、アホほど暴走する妄想の中にいることのなんと楽しいことか。
カレー沢薫さんのコラムで妄想から生まれる黒歴史をどう取り扱ったらいいのか・・・という話題が出ていて面白かったのですが、
妄想を形にしてしまって恥ずかしい、というレベルをとっくのとうに超えてしまっている自分を感じてシュンとしました。
妄想を紙に定着させて生きてきて、もちろん昔の作品を「音読するぞ」と言われたらあんぎゃあああああとナタを持って切りつけるくらいのことはあるんですが、一息ついて自分で読み始めたら「このころ?うん、荒削りだけど頑張ってたよね」となるのです。
多分そうじゃないと漫画家を続けられないから変わってきたのだと思うのですが、うちの実家の天ぷら屋の父と母と弟はもうちょっとやそっとじゃどんなどんぶりを持っても熱がらない指や手のひら持ってるんですが、そんな感じになっている。
誤解を恐れずに言えば、面の皮が厚い。
精神の耐熱温度がストゥブなみに高い。
なので一人で京都大学をウロウロしながら、一生分の恋の最中にいる人間の思いを味わってきたことを、noteに書いても何にも恥ずかしくないし、なんなら頭の中に生まれたキャラクターの思いを「そりゃあ楽しくて苦しくて楽しいだろうな」と一人で考えて、パタンと脳内で閉じることもできてしまう。
一人で考えて、一人で閉じてしまえる。
「じゃあ描くことと描かないことの差はなんなんだろう」
なんなんだろう?
「残すことと残さないことの差はなんなんだろう?」
はるか昔に描かれて1000年残った文学。
そのまま受け取るだけでは解らなかったことが、時代と人物に焦点を当てると見えてくることがある・・・それが文学研究なのですが、枕草子も源氏物語もその点でとても政治的なものであったことがわかっています。
書きたかったから、というよりも「描く必要があったから」。
自分自身と時代の要請があったからこそ生まれた文学ということが知識としてはわかっていても、それがどういう力をもって筆を執らせたのかという実感はNHK大河「光る君へ」のドラマを見るまでよくわかっていませんでした。
帝の心を動かすために、留めるために、忘却させないために、気づいていただくために、物語を機能させる・・・。そういう感じだったのか〜〜〜とドラマを見てていつも息を飲みます。
見てる方はワクワク楽しいだけですが、もし自分が紫式部だったらと思うとゾッとします。しません?こんな無理難題、「虎を出せ」と言われた一休さん以上なんですよ。
その期待とプレッシャーはどれほどのものだったでしょうか。
「描く必要があったから」
これこそプロの姿勢なのだと、夢浮橋公園の紫式部像を見ながらその腹のくくりようによく解らない嘆息が漏れます。
黒歴史とか、恥ずかしい妄想とか、言ってられないんですよ。
恥ずかしいうちは、それはまだ臍の緒が切れていない状態で。
時代に求められ、時代と噛み合った時に、個人的な恥ずかしさは超えていくしかない。描くしかないのですよ。
そんなふうな「噛み合った」と思える瞬間を求めてプロは創作するし、別に噛み合わなくったっていいんだわ、と思って創作もする。そしてそれは頭の中でパタンと閉じたりもする。
自分の目で見て、心の中で育ててみないと、歌を詠んだり歌に心を歌われたりしてみないと、その喜びも痛さも苦しさもわからない。
でも「恋をすること」と「恋を描くこと」の間には大きな差が間違いなくある。
想定読者ガチ固定の文学がこれほどの栄華をもたらしたのか・・・と腹を括った紫式部先輩の手腕に尊敬しかない平等院鳳凰堂(いいすぎ)。
世界遺産と国宝の大渋滞のなか、これほどまでに源氏物語が今の私たちの価値観からも面白く思える(ドラマで言ったら宮中の政治と人間関係が面白く思える)のは、共感できるエピソードが信じられないくらいの質と量で表現されているからに違いありません。
そういう普遍的な人間の行動や面白みみたいなものを文学や生き様の中で発見するのは、とても大事なことだと思うのです。
生活や価値観は変わるけど、好きな人ができて心が拡張することや、歌に泣きたくなることは変わらない。
変わるものと変わらないものがあること。変わるものも軽やかに楽しんでいいこと。
変わらないものがたくさん大事に守られているこの古の都で、ちょっとだけ恋をするキャラクターになったりして、そしてそれは実は恋だけじゃなくて、大事な人ができたら誰にでも起こる現象なんだろうなと思ったりして、
「このキッチンカーの食べ物、あの子が見たら食べたがるだろうな」とか、
「この段差はおじいちゃんには超えられないけど、あっちにスロープがあるからよかったな」とか、金木犀香る都を歩きながら考える一泊二日でした。
恋とは違う優しい方法で、大事な人の数だけ自分自身が広がっていきます。
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末次由紀のひみつノート
漫画家のプライベートの大したことないひみつの話。何かあったらすぐ漫画を書いてしまうので、プライベートで描いた漫画なども載せていきます。
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