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【今でしょ!note#14】 1966-70年 高度成長の持続と動揺 (経済白書から現代史を学ぶ その5)

おはようございます。林でございます。

「経済白書で読む戦後日本経済の歩み」シリーズその5です。

1955年ごろから開始した高度経済成長では、戦後10年間のアメリカからの支援や特需における回復を基調とした成長ではなく、企業の技術革新・設備投資を基調とした近代化による成長フェーズに入りました。

1960年の「国民所得倍増計画」では、設備投資の増大により供給能力を伸ばす、民間の旺盛な設備投資欲を後押しすることで、翌年には同額のGNP増額をもたらし、輸出の伸長に繋がる、という強気の姿勢のもと、年平均10%で成長を続け、国民所得はたった7年で2倍になります。

また、道路・港湾・用地・用水などの社会資本拡充と、産業構造変化に伴う失業率増加や格差への対応として、社会保障充実、社会福祉向上に乗り出したのもこの頃です。

1965年には、「昭和40年不況」が進行し、企業倒産増大、株価下落となり厳しい状況となりましたが、公定歩合や預金準備率操作による金融政策緩和だけでなく、公共事業促進や赤字国債発行などの財政施策により、1960年代後半にかけて、更なる成長を持続させます。

今回は、1966年以降の状況と、成長の裏で生じてきた歪みについて触れていきます。


1966〜70年の概観

1965年の「昭和40年不況」を脱した日本経済は、その後予想を超えた拡大を示し、1970年7月まで4年9ヶ月にわたる長期好況を持続させます。
66〜69年度の経済成長率は年平均11〜13%に達し、57ヶ月にわたる好況「いざなぎ景気」となりますが、このような長期好況の中でも景気情勢は必ずしも平坦なものではありませんでした。

65年11月からの景気上昇の牽引力は、輸出・財政でしたが、66年度下期からは民間設備投資増勢、堅調な農村消費、都市勤労者の個人消費拡大によるものとなります。特に、耐久消費財の新たな需要として期待されたカラーテレビ・乗用車・クーラーの3Cです。
一方で、景気拡大の中、67年には国際収支の大幅な悪化による景気調整策、68年には百貨店売上・日銀券発行の伸び悩み、鉄工業生産の鈍化などのかげりが見られましたが、経済の拡大基調を変えるほどではありませんでした。
68年以降は、国際収支黒字が続きますが、輸出競争力向上による輸出急増、工業高度化による原材料輸入の減少によるものです。

GNP(国民総生産)世界第2位になった日本

50年代後半の成長に比べ、輸出・住宅・個人消費などの経済インパクトが高まり、よりバランスの取れたものとなってきましたが、成長の内容は50年代後半の延長線上にありました。
この高成長の過程で、企業の完全雇用が定着し、68年には西ドイツを抜きGNP世界第2位の国となります。それでも一人当たり国民所得は世界20位前後で、労働生産性も欧米先進国に比べまだまだ低い水準にありました。

高度成長により経済大国となった日本は、貿易・資本などの対外取引自由化を一層推進し、国際社会から経済協力の更なる促進を要請されることになります。
アメリカの外圧もあり、67年の第一次資本自由化を皮切りに、取引自由化の動きが始まりました。
しかし、政府・通産省・財界は、外資による国内企業の乗っ取りを恐れ、「資本自由化が世界の大勢であり、国際協調のためにやむなく実施する」という態度を取ったこともあり、対策としての大型合併による産業再編が進みます。
例えば、富士製鉄・八幡製鉄の合併は、公取委、通産省、産業界、学界を巻き込んだ論争に発展し、70年3月に世界第二位の鉄鋼メーカー、新日本製鉄が誕生します。このような大型合併の動きにより、各業界の寡占度を高めたものの、全面的に経済の柔軟性を損ったわけではありませんでした。

3Cブームの普及状況は?

1950年代後半以降の消費革命をリードした白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫の「三種の神器」は、「昭和40年不況」を受けて生産が落ち、戦後の耐久消費財ブームも頭を打ったかのように見えましたが、上述のいざなぎ景気は、3Cブームが牽引します。
カラーテレビの生産開始は64年ですが、はじめはアメリカ向けの輸出が中心でした。国内普及が軌道に乗ったのは、66年にNHKでカラー放送が全国受信できる態勢が整ってからとなります。都市世帯におけるカラーテレビの普及率は、71年には47.7%と、約半数の世帯に広がりました。

クーラーは、下図の通り、普及率で見ると1970年時点では5.9%で、国民の約半数に普及するのは、1985年以降となっていますが、生産金額としては、65年から69年にかけて9.8倍に伸びています。

内閣府「消費動向調査」平成30年『主要耐久消費財の普及率の推移』二人以上の世帯より

同資料で乗用車普及率を見てみると、65年の9.2%から70年には22%に上昇し、70年代後半には半数を超えています。乗用車の大衆化はマイカー時代の扉を開き、自動車産業はやがて花形輸出産業に成長していきます。マイカー時代到来は、社会的にも流通形態に影響し、大型店舗の地方郊外出店への広がりといった小売業構造などへの変化をもたらしていきます。

成長の裏で深刻化する産業公害

都市化が急速に進む中で、交通渋滞、通勤難、住宅価格・地価の高騰、排ガスによる大気汚染などの公害問題の深刻化、地方の過疎問題など負の側面が目立つようになります。1970年には、朝日新聞が計18回にわたる「くたばれGNP」を連載し、GNPが本来の豊かさからいかに離れた概念であるかを様々な角度から論じ、当時の流行語となりました。

1950年代末から続々と建設されたコンビナートから発生する亜硫酸ガスによる大気汚染、自動車の普及による大気汚染、化学工場や金属製錬工場排水の有害物質などによる水質汚濁など、産業公害が深刻化します。

経済白書でも1960年代後半から毎年のように公害問題を取り上げています。
国・地公体・企業で公害防止に対する認識が高まってきたとしながら、対策があまりに遅れていること、公害をはじめとした社会的費用を差し引いたものが、本当の意味での国民生活向上の指標になるべきであることを主張しています。

次回は、60年代までの成長を支えていた世界経済と貿易の順調な拡大という前提条件が崩れ、高度成長期終焉とその後の新たな局面に入っていく日本経済の動きについて、取り上げていきます。

それでは、今日もよい1日をお過ごしください。
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林 裕也@30代民間企業の育児マネージャー
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