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途切れたって、心が折れなきゃいいのだ

昨日、130日くらい続いていた毎日更新が途切れた。

友だちと飲みに行く日は、「今日は0時回るかもしれないよなぁ」なんて思いながら、あらかじめ書いていたし、ある時は一緒にいる友だちにお願いして、「ごめん、ちょっとだけ書かして」と言って、書いた。

毎日更新することを目標に、わりかし工夫していた。

なのに、落とし穴というのは思わぬ身近にあって、僕が昨日書けなかったのは、少しウトウト横になっていたら、いつの間にか0時を超えていたからだった。

起きたのは1時過ぎ。「あー、書いてないな、note」そんなことを時計を見て、思った。

でも、それなのに全然ガッカリしなかったのはなんでなのだろうか。ショックというのもなくて、なんならホッとした。

たまに、自分でも大したことないことを書いているな、と自覚しながら、書いている時がある。そういう日がある。

そういう日は、僕はちょっとした罪悪感を抱く。書こうと思って書いたのではなく、毎日更新する記録を途切れさせないために、手抜きしてまで、無理にあがいてまで書いている。そのことに対する、罪悪感だ。

毎日更新する条件のうち、きっと無意識のうちに、納得いくものを書く、というのも入っていたんだろう。

そして、ただ単に、自分が愛せない記事を載せるのが嫌だったんだろう。

だから、僕はたぶん、ホッとした。無理に記録にしがみつかなくていいのだと、安心した。noteに書いていると、○○日目と表示される。記録をきちんとデジタルのデータとして、正確にとってくれる。

でも、それに対して、時に窮屈さを感じてしまう。マイペースではなくて、noteのペースに移り変わっていることがあるのだ。

別に、その機能が悪いと思っているのではないし、むしろ僕の場合は、わかりやすく表示されるその数字に達成感を覚えることもあった。

ただ、可視化されるからこそ、この記録を途絶えさせてはいけないとも思ってしまったという、それだけのことだ。

もちろん、途切れてしまったのは、noteのせいではない。自分が寝てしまったからである。悪いのは、自分なのだ。

でも、ちょうどいいリセットのように思えている。この記事を書くネタにもなった。僕の130日という数字が1つの記事になったのだ。

そう思うと、やっぱり悪くないなと、思う。ポジティブすぎるだろうか。いや、そんなことはないと思う。これくらい気楽でいいのだ。

記録が途切れたっていい。転んでも、うまくいかなくても、自分が折れなきゃいいのだ。僕はまだ折れてない。転んだだけだ。

僕はまた、今日から頑張っていく。

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