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傘をさしたがらない
雪の日、私は傘をさしたがらない。
昔見た洋画の主人公がそうだったから。ミーハーな所がある。でもなんだか切なげながらも血流がじんわりと巡っている様な気がして良かったのだ。
傘をさしなさいと言われて育ってきた。理由は簡単で、雨は大気の汚れを含んでいるから。今となってはちょっとばかし濡れたところでどうって事ない。
傘をささないために、地域性を引用したこともあった。なんとなく正当化したくなった。とは言っても、誰かに迷惑を掛けてるわけでもないので、心のどこかで寂しい気持ちになった。
私たちは常に理由がなければならない、という社会に生きがちだ。常に葛藤してる。かっこいいから、なんか良いから、それで片付けても良いじゃないかと。
でも私はそうあっても良いと思う一方で、芸術の仕事は解像度の高さが必要になる。というか生きていると解像度の高さが豊かさに繋がることばかり。やっぱり理由は必要なのだろうな。
最近読んだ恋愛漫画の中に、好きな気持ちに理由なんていらないでしょ!そんなのわかんないよ!みたいなのがあって、わかるーとか思った。とか言いながらもいざその立場だったら、御託を並べても嘘っぽくなってしまうから同じように言ってしまうかもしれない。
みんな理由やトリックを知りたがるのに、説明すると急に嘘っぽくなったり説得力がなくなるのは何でなんだろう。色んな人たちと出会ってきて、答えだけ聞いて次に行くみたいな、こういう人本当に多かった。
どうしたら私の傘をさしたがらないを理由がなんか好きで納得してもらえるのだろう。
表情だろうか、これは任せてほしい。とびっきりの顔で伝えます。
声色だろうか、これも任せてほしい。とびっきり哀愁醸し出します。
話すスピードだろうか、任せてくれ。緩急つけます。
でもこれって口語の時限定過ぎてここでは伝えきれない。そもそもそんなに熱弁したいわけでもない。こんなことに興味を持つ人も少ない。
私は傘をさすと天地がひっくり返るなんて重大な十字架を背負ってるなんてこともない。
どうしてここまでこの話を引っ張ってるのだろう。
単に雪が好きだからってだけなのに。
東京生まれにとって、東京の雪は特別なだけなのに。
(2024/02/05)