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バスに乗れない金曜日

久しぶりにウツが出た。

朝、いつも乗っているバスに乗れない。

いや、乗ろうと思えば乗れるのだろう。
ただ、目の前に停車したバスの扉の、その敷居を超える気が全く起きない。

自分の行先のバスじゃありませんよ、って顔をしてバスを見送る。

「いやいや、どうしたよ」と自分の中の別な自分がツッコミを入れる。


原因は分かっている。
仕事上の、人間関係の、ちょっとしたつまずきだ。

会社についてしまえば、約8時間の就業時間中、仮面をかぶることになる。
いや、こんなことなんでもないっすよ、と振る舞うことになる。

それが恐ろしく億劫なのだ。


ここで休み癖が出てしまえば、以前のように会社に行けなくなる。
それはそれで、考えただけで冷汗が噴き出すくらいに恐い。

でも、ここで感情を押し殺してしまえば、また以前のように心の中で少しずつ爆弾を育てることになる。
ある程度まで爆弾が育ってしまえば、家の玄関の敷居さえ跨ぐことが出来なくなる。

そっちの未来も、ものすごく恐い。


会社に「久しぶりにバスに乗れなくなりました。」と電話する。
物凄くみじめな気分だ。

いったい何割の人が、この「バスに乗れない」という状況を理解できるのだろう。
私だって、実際に自分の身にそんなことが起こるまで、それは何かの比喩なのだと思っていた。


昔読んだ本に、「大切なのは、悪い空気の入れ替えが終わるまで、思考を停止して待つこと」だと書いていた。
好きな服を着て、花を飾って、音楽を聴いて、どうでもいい映画を観て。

過ぎてしまえば、自然と動けるようになると。


思考が停止してしまった時は、何か判断することは止めた方がよい、とも聞いた。
本当にそうだと思う。ろくでもないことしか考えられない頭に選択を迫るのは、正しい判断だと思えない。

それでも、身体の中の恐怖は、自分に、選択を迫る。
それを「よしよし、苦労かけてすまないね。」とあやして過ごす。


自分に負担をかけ続けた結果の病気だから、周りを恨むのも、自分の弱さを呪うのも違う。

日々は一歩々々だ。
スタート地点に戻る、のマスに止まってしまっても、またサイコロを振れるまで待つしかないのだ。

次のターンまで、好きなだけ寝て過ごすとしよう。


そんな取り留めのない日記。
最後まで読んで頂いて、ありがとうございます。


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