見出し画像

キリコ展に行ったら、脳がパニックになった

デ・キリコ展に行ってきた。
開催を聞き、絶対に行こう!と決意したのも束の間、終了1週間前にして慌てて駆け込んだ。


私は、美術館に行くことが好きだ。
素敵な作品に出会い、心が洗われたような気がして、帰る頃になんだか晴々しい気持ちになることが好きだ。
作品を見て、この芸術家は、何を考え、どんな思いでこの作品を生み出したのだろうか?と妄想する時間が好きだ。勿論、答えはないけれど。

でも同時に、美術館に行くことは苦手だ。
私にとって美術館は、自分の勉強不足、己のちっぽけさ、自分の心の中の嫌な部分を見せつけられる場所だからだ。
この宗教画のシーンよく分からないなーとか、自分と同じ年でこんな凄いものを生み出しているの?!とか、ここは興味ないなーとか、余計なことも考えてしまう。


しかし今回のデ・キリコ展は、思考を止める暇もないまま絵画と向き合うことができた気がするので、この嫌な部分に着目する必要がなかった。
非常に印象的な展示会だった。


キリコ(1888-1978)は、シュルレアリズムの先駆者にあたる画家で、あのダリやマグリットなどの芸術家に影響を与えたそうだ。
「形而上絵画」は彼の代名詞として世に知られている。

個人的に面白いなと思ったのは、キリコの画風の変遷だ。簡単に描くと、
形而上絵画に目覚めた後も、一旦伝統絵画を描いた時代を経て、晩年、再度形而上絵画を描いたらしい。
なんなら、キリコは、晩年の形而上絵画がかなり確立されていると評価を受けているとの説明を読んだ。
偉大なキリコでさえふらふらしていたのだから、私達だって、ふらふらしてもいいんだなあと思わされた。
ふらふらにだって、きっと意味はあるのだろう。


キリコの絵を見てみると、現実と非現実とが融合しているような作品が多く、脳が混乱し、パニックに陥った。
屋外に家具がどんと置いてある様子や、室内に家がある様子、室内で戦い(鎧を着て剣を持った戦士同士の戦い)をしている様子。。

(左)《谷間の家具》1927年
(右)《緑の雨戸のある家》1925-1926年



これらは正直まだいい方で、「マヌカン」と呼ばれる、顔がないマネキンのようなものをモチーフにした作品も多々あったのだが、
顔がない故に、その人が今どんな状況にいて、何を考え、誰を思うのかさっぱり分からなかった。
一緒に描かれているものも、巨大な三角定規のようなもの、サイコロのようなもの、、、
この人は何をしているのだろう?なぜ、キリコはこれらのモノを一緒に描いたんだろう?何を伝えたかったのか?
この「分からない」ことに対して分かろうとする思考のプロセスが、なんとも面白く、楽しかった。
勿論、結局分からなかったのだけど。もっとじっくり、堪能したかったなあ。

《形而上的なミューズたち》1918年
公式チラシより


こうやって、分からないながらに思考に訴えかけてくる作品を多数生み出したデ・キリコは、正真正銘の芸術家なのだな、と気付かされた。
きっと、見て理解するものではないのだ。鑑賞者に何か違和感を感じさせる、ということが彼の残した大きな功績のひとつなのだろう。

私はキリコの絵画を見て、この人は、良くも悪くも自信溢れる人なんだろうなあ、と羨ましくなった。
皇族衣装に着せて描かれている自画像は私の記憶の限り見たことないし、「形而上絵画」が自分が生み出したスタイルであることを強調する為に、自分の過去作品をオマージュするなんて、自分の過去作品に誇りがない限りできない行為ではないだろうか。



余談だが、美術館って静かすぎだと思うのは私だけだろうか?
せめて誰かと一緒にいるときくらいは、作品を見て「あーでもない、こーでもない」と少し気軽に話せるような空間であって欲しい。
この展示会ほど強く思ったことはない。
そしたら、もっと作品に対しても自分に対しても、解像度が上がる気がするのに。


あと、絶対忘れたくないこととしては、キリコの鼻は、マリオ・ルイージの鼻に似ていたこと。
調べたら両者ともイタリアに由来しているそうで!!意外な共通点を発見した。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集