会津バス・ツアー

   日記より28-11「会津バス・ツアー」        H夕闇
            十月二十二日(火曜日)晴れ後に曇り
 きのうの急激な寒さは、どうだ。北海道での学生時代さながら、ふとんへ潜(もぐ)り込(こ)んで本を開いた。けさも、土手のベンチで息が白かった。それで諦(あきら)め、いよいよ納戸(なんど)から石油ストーブを出して掃除(そうじ)、ファン・ヒーターにも給油した。
 やれやれ冬支度(ふゆじたく)が整った、と思いきや、日が差すに従って温(ぬく)まり、窓を開けて快(こころよ)い程。今度はベランダふとん干しに大童(おおわらわ)。
 全く以(も)って近頃の寒暖差には驚き呆(あき)れる。朝と昼の日較差だけでなく、日毎(ごと)の気温差も(最高気温を比べて)十度を越えることが時に有る。前日の最高気温と翌日の最低気温の落差なら、更に激しい。
 この週末、会津(あいづ)では夏日だった。エア・コンの稼働する貸し切りバスの中は別格、広い鶴ヶ城(つるがじょう)公園の小砂利(こじゃり)を踏んで歩くと、ウッスラ汗を掻(か)いた。それなのに、自宅で迎えた翌朝の最低気温は一桁(けた)。その翌日(きのう)は更に冷え込んで、この秋一番とか。ふとんに潜り込んだ次第(しだい)である。

 病み上がりの妻が、この前の行楽では飽き足らず、只見線に乗りたいと言い出した。そこは行って見たいと前々から夫婦で言っていた所だが、コロナ騒ぎで永らく頓挫(とんざ)。剰(あまつさ)え東日本大震災の年の秋に豪雨に見舞われ、鉄橋が何箇所も流されるなど、一時はJRが再建を断念したものの、地元の住民と自治体が協力して一昨年に漸(ようや)く全線復旧を遂げた、という曰(い)わく付きの鉄路。その一部区間に乗車できるバス・ツアーを見付けて、二人分を申し込んだ。これを下見として、凡(おおよ)そ見当を付け、改めて自前でユックリ出掛(でか)けたい、というのが家内の魂胆(こんたん)である。
 目指す鉄道は二日目の日程。初日は先ず大内(おおうち)宿(じゅく)へ。コロナ前に、妻の幼馴染(おさななじ)みTちゃんと三人で行ったことが有る。古い宿場町の茅葺(かやぶ)き屋根に雪が積もり、青い夕暮れ時、通りの雪灯(とう)篭(ろう)に火が灯(とも)ると、郷愁を誘う幻想的な風景だった。今回その突き当りの古民家で(家並みを見通し乍(なが)ら)そばの昼食。
 それから、「塔のへつり」と云(い)う所へ連れて行かれた。大川を挟(はさ)んで岸壁を眺(なが)め、吊(つ)り橋(ばし)も渡って、紅葉を愛(め)でる、といった想定の観光名所らしいが、肝心(かんじん)の紅葉の色付きが未だだった。もみじ狩りには早過ぎた、と云うよりも、今年の残暑が永く、季節の移ろいが遅れた、と云った方が適当だろう。
 つるべ落としの日暮れよりも早く、猪苗代(いなわしろ)温泉に到着。十一階の大きな南窓から湖が眺望できた。この居(い)乍(なが)らにしての展望だけで、貧乏性の僕には充分だった。朝夕の豪華バイキングなど、分に不相応な贅沢(ぜいたく)で、気が引けてしまう。(但し、食す可(べ)き物は大いに食した。)
 去年の夏、むすこから急に誘われて、この猪苗代湖の天神浜オート・キャンプ場へ来た。自家用車に乗せられ、大きなリュックを担ぐ必要も無い。松林の外(はず)れに親子三人テントを張って、夜は焚(た)き火(び)で缶(カン)ビール、見上げれば満天の星。夜明けには、湖畔の逍遥(しょうよう)と野鳥の声。新式のキャンプ用具を駆使する伜(せがれ)の手料理で、楽チンだった。あれから一年余り。思えば、語り尽くせぬ諸事情が有った。

 前日に早く目覚めた為(ため)か、僕は夜八時過ぎ(ビールも飲まずに)眠りに落ちた。従って翌朝も早く、二時だった。もう眠れず、三時に諦めた。こういう場合い、家内を起こさぬよう、こっそりロビーへ起き出して、そこの薄明かりで本を読むのが、常である。陳舜臣「中国傑物伝」。五時に入浴できた。
   露天ぶろ 紅葉の山くらくして かなたの雲に茜(あかね)差す 夕闇
   湖や キャンプせし子は仕事にて               夕闇
 一っぷろ浴びても、未だ朝食七時には間が有り、夫婦でホテルR周辺を散策。朝(あさ)靄(もや)の漂う林間に、小川のせせらぎ、冬にはリフトが動くらしいスキー場、子供が喜びそうなアスレチック、、、そこまでは良かったが、敷き地が広くて道を失い、廃屋の旧館へも迷い込んで、冷や汗を掻いた。
 二日目の旅程は鶴ヶ城から始まって、二人とも小学校の修学旅行を懐かしむ。妻など、みやげ物店の佇(たたず)まいまで思い出した。会津地方どこへ行っても、赤べこがユックリ首を揺らす。白虎(びゃっこ)隊の木刀は、我が家の子供らも買って来たものだ。
 それから、会津若松市内の七日町で、絢爛(けんらん)の郷土料理。「大正浪漫(ろまん)」を謳(うた)う大店(おおだな)の古い建て物に、当時のハイカラな雰囲気(ふんいき)が漂う。幕末の会津戦争ばかりが売り物でなく、瀬戸物(せともの)屋もカフェも和菓子店も小間物屋も、商店街が挙(こぞ)って嘗(かつ)ての日常生活の匂(にお)いを残しており、風情(ふぜい)が有る。
 次ぎに圓蔵寺(えんぞうじ)へ。ここも紅葉には早かったが、高台から只見(ただみ)川(がわ)が見晴らせた。大河が折れ曲がる鼻先に境内(けいだい)が有り、左右に赤い橋が鳥瞰(ちょうかん)できる。川(かわ)霧(ぎり)に孤舟の浮かぶ観光写真が、彷彿(ほうふつ)とされる。
 バスは少し戻って、いよいよ只見線へ。地元の観光ガイドが、柳津(やないづ)駅に待っていた。電車が定刻に来ず、ボランティアらしい白(しろ)う人(と)のおばちゃんは困った様子。五分ばかり遅れて、下りの二両連結が到着。先頭まで行って、ボックス席に座れた。大阪本社から若松市へ単身赴任中と言う若い娘さん二人連れと、相席になった。只見線の沿革などに就(つ)いて会話が弾んだ。残念だったのは、列車が橋梁(きょうりょう)を渡る(絵に描いたような)典型的風景は見られないこと。(考えてみれば、その列車に自分が乗っているのだから、当然だ。)「仕事は辛くないですか。内の子は、夜遅く帰って来ても、取り引き先から電話が鳴って、大変そうだ。」「スマホ、置いて来ました。」などと僕が娘さんたちと楽しく話し込んだ所(ところ)、「ボランティア・ガイドの説明が聞こえなかった。」とて後で家内から手ひどく叱(しか)られた。
 半時間後、宮下駅で下車。バスに乗り換えて、圓蔵寺から見えた赤い橋を二つ渡り、帰路に就(つ)いた。

 「いつまで旅行できると思ってるの?」とて引っ張り出されたバス・ツアー。「いつでも行ける。」と僕は信じて疑わないが、どうやら妻は先(さき)頃(ごろ)の長患(ながわずら)いで少々気が弱くなったのか、「体が自由な内に、」と気が急(せ)くようだ。今度は伜の出張に便乗して、、、などと親子で奥只見の旅を思い描くらしい。
 冥途(めいど)のみやげに旅の思い出を積み上げようとは、あの世が近付いたのか、又は遠退いたのか。思(おも)い懸(が)けぬ出来事やトラブルも有ったが、腰を上げた甲斐(かい)は有った。           (日記より)

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