学友

     日記より28-1「学友」           H夕闇
              令和六年四月九日(火曜日)雨
 首都圏は緑が少ない、との先入観に反して、車窓から眺(なが)める沿線は桜の花が多く目に付いた。ちょうど新幹線から花見した今月四日(木曜日)東京は桜が満開になったと聞く。花に祝福されるかの如(ごと)く、畏友と再会する旅だった。
 数年前の初対面では、我が家で文学や学問に就(つ)いて親しく議論し、大変に愉快だった。やはり庭に福寿草が咲く季節で、やや凩(こがらし)の吹く中N川を共に散歩した。
 研究分野は違うが、先方は歴(れき)とした学者である。僕は浅学にして存じ上げなかったが、その道の権威らしい。名門大学で教鞭も執った。そういう大人物を相手に、僕のようなアマチュア文士が議論を吹(ふ)っ掛(か)けるなど、(省(かえり)みれば、)井の中の蛙(かわず)、盲(めくら)蛇(へび)に怖(お)じず、、、汗顔(かんがん)の至(いた)りである。それでもドイツ文学などで互いに熱弁を振るい、意気が投合。胸襟(きょうきん)を開(ひら)いて学友と口角(こうかく)に泡(あわ)を飛(と)ばす機会など絶えて久しいが、楽しい一時を持った。
 後日談。娘へ「親友が出来た。」と感想を漏(も)らした所(ところ)、S先生は又聞きして呵々(かか)大笑したそうだ。
 この度(たび)の邂逅(かいこう)には、別のテーマが有った。妻が同行し、娘も立ち合って、御自宅を訪れた。畏友が娘(むすめ)婿(むこ)になるというのも、中々(なかなか)に愉快である。
 再会し乾杯した翌日は、末娘の案内で、文明開化の開港地らしい横浜の町並みを歩き、中華街へ。そこで娘の婚約者も合流して昼食。娘の幼い頃の思い出話しなど歓談した。それから親子三人で山下公園を見物すべく別れたが、S先生は(思い做(な)しか)疲れた表情で、目に生気が無かった。
 前夜お世話になった恩師が他界した、と娘から聞いた。多分あれから弔問(ちょうもん)に向かったのだろう。

 僕も大学時代のO先生が亡くなった時は、ひどく参った。
 そのことを主題に日記を書いた覚えが有る。それを藁半紙(わらばんし)にプリントして受け持ちクラスで配った。配った残りが段ボール箱に詰(つ)め込(こ)んで有(あ)る筈(はず)だ、と思って書斎や物置きや押し入れを散々(さんざん)探した。その印刷物を傷心の友人(又は婿殿)に送ったら、同じい愁傷の思いを抱き合うことで、少しは慰(なぐさ)めになるか、と当て推量したのである。そして漸(ようや)く「日記より」を貯め込んだ箱を探し当てた。
 当時の末娘は未だ幼く、日常会話にも若干(じゃっかん)の不自由を感じる年頃だった。未だ今の家へ引っ越して来る前で、K団地に住んでいた。そして白いクローバーの咲く季節だった。それらを手掛かりに、あちこち古い日記を拾い読みして、段々と執筆時期の見当が付いた。
 思う所が有って生徒たちに日記を読ませてから、二十年余り。配布した残部を捨てられず、年度毎(ごと)に一纏(まと)めにして秘蔵した。その最初期、二年目の文章だったらしい。
 けれども、問題の年は、バック・ナンバーが(虫喰(く)いのように)所々飛んでいた。残存する前回の内容から推測すると、2-15が件(くだん)の日記らしいのだが、その号が欠けている。ライフ・ワークを是非いつかは一冊に、と密かに願っていたから、尚更(なおさら)ガッカリした。

 O先生は、太宰治のリアル・タイムの読者だった。源氏研の自主ゼミが終わると、よく大学正門前の居酒屋YKへ誘ってくれて、僕らを太宰流に「年少の友」とし、放談した。青年期に人は多く生き方が分からず、戸惑い、苦しむ時期が有る。僕も生きる為(ため)のモデルを必要としていたのである。
 卒業後、帰郷し、しがない教師を始めて暗中を模索した頃、恩師の訃報に触れた。
 確か夏の休日だったように記憶する。僕は背骨(バック・ボーン)を失い、茫然とした。そしてフラリと公園へ出た。白爪草(クローバー)が一面に咲いていたことを覚えている。手を繋(つな)いで付いて来た末の娘と、日溜まりの草に座った。力を失っていた。幼い子も押し黙って、花を積んだ。そして僕に呉(く)れると言った。
「とうさんが悲しいのが、分かるのか。」と問うてみた。おかっぱ頭がコクリと頷(うなず)いた。
「とうさんの先生が、死んだんだ。」と言うと、「フウーン、ちょう。」と答える。舌足らずで「そう」と発音できなかった。
 やや有ってから「死ぬって、分かるのか。」と問えば、首を横に振る。日を浴びて、黒髪が光った。
「Y子は、おっぴさんを覚えているかい。」僕の祖母(娘の曾祖母(そうそぼ))は、娘が物心の付く前に境を異にしていたから、コックリ頷くのが不思議だった。僕は噛(か)んで含(ふく)めるようにユックリと話した。
「おっぴさんは、もう居(い)ないだろ。おじいちゃんち家中を探しても、チッとも見付からないだろ。おっぴさんは、もう死んだんだ。。。死ぬっていうのはね、もう会えないってことなんだ。どんなに会いたくても、もう絶対に会えないっていうことなんだ。」
 幼い娘と交わした、死に就いての問答だった。

 「日記より2-15」は既に失われたらしい。心血を注いでも、市井(しせい)に埋没する無念を思う。然(しか)し、(書いた僕が気に入って、何度も読み返した結果か、)父と子の会話が、一字一句まで非常に鮮明な文言となって、今も脳裏に蘇(よみがえ)る。
 言葉のタドタドしかった幼子(おさなご)も軈(やが)て思春期を迎え、道に迷ったようだった。(父親は何も出来ぬ侭(まま)、見(み)す見(み)す手を拱(こまね)いていた。今も尚それを気の毒にも済まなくも思っている。)娘は独力で厳しい試行錯誤を経て、やっと自身の生き方を見付けたようだ。そこまだ辿(たど)り着(つ)くに際し道標となってくれた人にも、衷心より感謝する。「これからも末永く娘を頼みます。」港の見える街角で、僕は婚約者S先生と握手して別れた。
 山下公園は花盛りだった。昼下がり娘は不案内な両親を駅まで送ってくれた。
 「おかあさんの有り難い所は、夫婦(ふうふ)喧嘩(げんか)しても、翌朝には『お早う』を言えることだ。一寝すれば、カラッと気分を変えられる。要らぬ意地を張って(二人で)翌日を潰(つぶ)さずに済(す)む。お前も見習うと良い。」
と言い残す心積もりだったが、別れ際に旨(うま)く話せなかった。母と嫁(とつ)ぐ娘は額を寄せ合って、小声で語り合い、離れられない様子。その未練を見るに忍びず、僕は一人でサッサと改札機を通った。妻が追って来て「おとうさん、何か一言、、、」と促(うなが)すが、僕はドンドン去った。言葉が不自由なのは、今度は父の方だった。僕らの姿が見える所まで、娘は改札口の向こうで移動して、手を振ったようだった。      (日記より)
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(付録)
   野口雨情・作詞  本居長世・作曲  「赤い靴(くつ)」
赤い靴 履(は)いてた 女の子 異人さんに 連れられて 行っちゃった
横浜の 波止場から 船に乗って 異人さんに 連れられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に 居るんだろう
赤い靴 見るたびに 考える 異人さんに 会うたびに 考える


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