行動制限の無いGW4

   日記より26-6「行動制限の無いGW」4       H夕闇
 若夫婦の親たち三人、それぞれ就職し立(た)ての修業時代に僻地(へきち)へ飛ばされ、いなかの青春を強(し)いられた訳だ。嫁の父親と舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)の間に、共感の雰囲気(ふんいき)が(言わずとも)漂った。
 例(たと)えば、戦後に永く時が経って、見ず知らずだった復員兵が出会ったとしよう。嘗(かつ)て送られた先は極寒の満州、敵に囲まれた中国本土、見捨てられた南方の島など。具体的な苦労は共通しなくとも「大変だったなあ。御苦労でした。」と深く頭を下げれば、多くを察し合える戦中派の感覚に、それは近いかも知(し)れない。互いの姿をリアル・タイムで見ずとも、顧(かえり)みれば、同質の苦難に耐(た)えた戦友の感が有る。
 「どさ回り」などと云(い)ったら、地元の人に申し訳が無いが、当時それが勤め人の常だった。初任地は先輩たちの行きたがらない辺鄙(へんぴ)な土地柄、娯楽も禄(ろく)に無い時代、暫(しば)し無聊(ぶりょう)を託(かこ)つのが、(口には出せずとも、)下積み新人の実態だった。賑やかな都会に憧(あこが)れるのは地元の青年たちと同様で、若い力を持て余し、ひたすら我慢(がまん)の数年間。そうして漸(ようや)く年季が明けたものだ。
 そんなに大きな町に住むのが良いのか、と考える向きが今日(脱サラ移住者等に)有ろうが、長男坊の僕など老人二人の実家から遠いのは不安だった。本屋は勿論(もちろん)、住民は畑を耕し野菜を作るから、八百屋(やおや)も無かった。魚から鉛筆まで商(あきな)う雑貨屋は有ったが、品数が少かった。
 お年頃の女性教師の場合いなら、土地の若者は(親元に残ったとしても、)殆(ほとん)ど農村青年ばかり。農家へ嫁ぐのは、サラリー・マン家庭で育った都会娘には、抵抗が有ったろう。その上いなかでは(ビックリする程)回りに目が有り、口うるさい。かくして、女の先生には老嬢が多い。もし連れ合いが有っても、過去の同僚(同業者)といったケースになる。
 仕事の上でも、問題が有った。定員の頭数だけは満たしたとしても、(そんなに恵まれた現場は多くなかったが、)職場は手探りの若い者ばかり。ノー・ハウの手解(てほど)きや懇切なアドバイスが欲(ほ)しい時に、熟練したベテランが傍(かたわ)らに少なかった。
 そんな具合いだから、若手同士は屡々(しばしば)集まって楽しんだ。町にだけ有る物が圧倒的に多い中、山にしか無いのがスキー場だった。遊び友だちは、互いの辛さも先行き不安も分かり、気心が知れた。それで公私共に助け合い、企業戦士は(同期の桜宜(よろ)しく)見事(みごと)に一致団結の気風を培(つちか)ったと記憶する。人当たりの悪い僕が仲間の輪に居(い)られたのだから、他は推(お)して知るべし。
 就職氷河期に「失われた十年」(後に二十年、三十年、、、)と言われたが、「大学は出たけれど」 何とか就職した戦後世代は(別の意味で)「失われた二十代」だった。大企業程(ほど)そんな人員配置と人事異動の傾向が強く、それは役所と私企業の違いは無かったようだ。 
 それでも、終身雇用と年功序列が未だ当たり前の時代だったから、中途退職なんて(心身の病いでも無い限り)滅多(めった)に聞かなかった。それが、バブル期の日本経済を下支えしていたのだろうか。戦後の高度経済成長期と、ソ連崩壊後のグローバル経済で日本企業が効率化と安い労働力を求めて海外進出した就職氷河期、それらの狭間(はざま)に僕らの世代は居た。若い者に皺(しわ)寄せが来る日本的経営が未だ色濃く残っていた時代だった。
 会社か家庭か、給料か休暇か、価値観が多様化し、働き方改革が(遅(おく)れ馳(ば)せ乍(なが)ら)叫ばれる昨今、総合職を選ばなければ住む所は自由に選べるのか。国の借金が増え、年金が不安視される今日、子や孫の未来は一体(いったい)どうなるのか。僕らの社会は、果たして進歩しているのだろうか。
 人類の文明は、幸福へ向かうのか。核兵器が(抑止力だけでなく)脅(おど)し文句にも使えると知った軍事大国は、今後どう出るのだろう。経済大国二位の覇権は、、、
 僕は自家用車を持たぬ人生を選んだが、むすこが持ったのは己(おのれ)の選択だったろうか。孫娘のピンクのブップは?気候変動が激しい海や大地を、僕らは譲り渡そうとしている。湖の畔(ほとり)で僕の脳裏を巡(めぐ)り、豊か過ぎる湯にドップリ浸(つ)かって考えたのは、そんな諸々(もろもろ)の事柄だった。

 「憎さも憎し懐かしい」と言うが、必ずしも碁(ご)仇(がたき)とは限るまい。(落語「笠碁」)新採用の公務員や新入社員の赴任地は寂れ、一年でも早く転勤したいと待ち望んだものだが、その同じ土地が今や妙に慕(した)わしい。僕は初め北海道で就職したから、少し事情が違うが、恐らく共に働いた連中に取(と)っても、Z山麓の分校とEスキー場は、そんな懐旧を誘う曽遊(そうゆう)の地(ち)である。
 水仙祭りで交換し合った思い出話しに依(よ)ると、T夫妻の青春時代も、同様だったらしい。
 新型コロナ・ウイルス感染症が二年余り、行動制限の無い大型連休は三年ぶり。むすこと長女から誘われて、今年は大いに行楽を満喫した。G・W(ゴールデンウイーク)は明けたが、今週は末の娘が帰って来ると言う。コロナ第六波で、今年も正月には帰省できなかった。
 永く使わない部屋の窓を開けて、風でも通そうか。ふとんも干しておこう。 
(日記より)
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前略  きのうは大変お世話様。お蔭で、思(おも)い懸(が)けず、懐かしいスキー場に再会できた。
――中略――又、朗らかに笑う姑さんで、良かったな。恐らく今Kが考えている以上に幸運なことだろう、と僕は思う。それは、世代を越えて恵まれることになる。嫁と姑の関係は、子供の人格形成にも、大きく永く影響するだろうから。 草々 
(長女Kへ宛(あ)てたEメールより)
水仙祭ツアー、楽しかったね!懐かしい土地に再会できて、良かったね。おとうさんにもスポーツに打ち込んだ時代が有ったというのが、何か意外な感じ。(笑) ――中略――
うん、そうだよ。優しい義母で、恵まれていると思う!     
(長女Kからの返信より)

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