日記より25-24「年賀状の感想文」

     日記より25-24「年賀状の感想文」       H夕闇                                                                                         

              令和四年正月十二日/暴風雪警報

前略  この年末年始に頂(いただ)いた(いたずらサンタのフライング年賀状から始まった五枚連載の)葉書きを元に、想像で膨(ふく)らませて、感想文を書いてみました。「分かった風(ふう)なことを言うな!」と叱(しか)られそうで、心配ですが、添付ファイルで送信します。

 又、もし御了解を頂ければ、(若干(じゃっかん)の筆を加えた上で)例の日記ブログに転載したいのですが、宜(よろ)しいでしょうか?               草々

   散文詩「橇」                   H夕闇

 正月から雪が降った。我が家は既に元朝参りを済ませたが、三箇日には家族で歩くのが習い。僕ら夫婦は元々アウト・ドア派だが、子供の頃から自家用車など使わぬ歩く旅へ連れ回されてスッカリ僕らの趣味を刷(す)り込(こ)まれてしまった伜(せがれ)も、延々と歩くのに全く抵抗が無い。尤(もっと)も、僕はギックリ腰など近年やって、お負けに手術まで受けて以来、少々自信を失い掛(か)けているが。

 電車に乗って郊外へ出た。車窓の雪景色を眺(なが)める内、身内に燃え上がる物を微(かす)かに感じる。駅を幾(いく)つか過ぎて、下車。暖房の効いた車内から出ると、鼻から入って来る大気が、肺の中でジワッと冷たく拡がった。その冷感も、歩き始めると、心地(ここち)良く思われて来る。

 軈(やが)て片いなかの家並みが途切れ、広々とした公園に出る。未だ誰も歩いていないらしく、遊歩道に足跡は無い。踏み荒らされていない真っ更な雪の原を目にすれば、童心に帰るのが、僕の常。高村光太郎の詩「道程」も脳裏に浮かぶ。嘗(かつ)て夫婦で(軈ては親子四人で)山歩きした頃の感覚が蘇(よみがえ)る。

 足跡で家族の印を新雪に残し乍(なが)ら行くと、公園の真ん中に小山が有る。今は雪を被(かぶ)った丘に過ぎないが、(由緒(ゆいしょ)書きに依(よ)ると、)誰の墓か歴史上は特定しないが、歴(れっき)とした古墳らしい。

 先(さっき)から子供の大層はしゃいだ声が(遠くまで)聞こえていたが、前方後円墳で橇(そり)滑りしているのだった。青と赤、雪遊び用の繋(つな)ぎ服(ふく)を着せられた子供二人が、一つの橇に乗って滑っている。(いや、今時は橇なんて云(い)わないらしい。スノー・ボートと言わないと、笑われるのである。)

 それの前に兄が手綱(たづな)を握って跨(またが)り、その肩に妹が後からシッカリしがみ付く。普段は喧嘩(けんか)しても、こんな時ばかりは頼り頼られる仲らしい。暫(しば)らく遠くから見ていると、兄妹は滑っては転び、下っては上る。それを何度も何度も(飽きもせずに)繰(く)り返(かえ)す。叫び声と共に周囲に吐き散らされる真っ白い息が、こちらまで二人の躍動感を伝えて来る。

 頂上から下る時が、一番キャーの声が大きい。悲鳴なのか、歓声なのか。急角度で滑った後、平らになった所を勢いで通過すると、もう一段。今度の斜面は、少し緩やかだが、上の段より長く続く。又もや女の子のキャーッ!

 その声に交じって、別の笑い声が聞こえた。天辺(てっぺん)から子供たちを眺めている二人、多分かれらの両親なのだろう。遠くて顔が見えないが、学校に上がらない位(くらい)の子らの親たちだから、未だ若い夫妻だろう。笑う声にも艶(つや)が有り、力も感じられる。

 そう言えば、あんな頃が僕ら家族にも有った。子供たちの手を引いて、夫婦でリュックを背負い、電車に乗って旅へ出た。観光地なんか洟(はな)も引っ掛けず、わざと人の行かない離島に渡り、山を歩いた。リゾート・ホテルで大枚(たいまい)を叩(はた)くなんて、馬鹿(ばか)馬鹿しい。テントを担いで、寝袋しょって、それが僕らの旅の姿だった。引いてはライフ・スタイルであり、生き方その物であり、そこに僕らのプライドが有った。

 でも、男の子は兎(と)も角(かく)、(後々乙名(おとな)になって嫁(とつ)いで行く頃に聞かされたことだが、)そんな時いつも娘は汚い恰好(かっこう)を人に見られるのが恥ずかしかったそうだ。小さくても(女の子は)そんな具合いに感じるとは!気が付かないで、可哀想(かわいそう)なことをしたなあ。

 それにしても、幼い子らが楽し気にキャーキャー遊ぶ姿、それを見守り乍ら(思わず)笑ってしまう若い両親、、、家族が一人残らず健康に恵まれて、きっと幸せなのだろう。子育てを楽しむ時期が、余念が無くて、(他の事に気を取られる余裕も無い程に必死で、)夫婦の最も幸福な季節だろう。よそ乍ら、永く続くよう願わずには居(い)られない。

 あの家庭に取(と)って、それは何物にも代えられない大切な宝物だ。恐らく、本人たちは今チッとも気付いていないに違い無いが。

 幸福の証拠写真を一つ撮っておいてやろう。この一枚が(後々もしも何かの縁で夫婦や兄妹の手に渡ることが有るとしたら、それは)必ずや一家の宝となるだろう。昔の家族アルバムが、僕たちの生きた証(あか)し、我が家の家宝になっているように。

 僕らの子育ては困難が多かったから、妻には人一倍に苦労を掛けた。僕が停年退職するまで、一人で皆しょわせてしまった。単身赴任の時期さえ有った。

 だから、同僚の視線を感じ乍らも、僕は定時に退社し、休暇も最大限に取った。育メンなんて流行語は無かった時代、男は外で働くもの、女は家を守るもの、との固定観念が日本社会に厳然と生きていた。職場の雰囲気(ふんいき)も冷たかった。

 無論、昇進も栄転も僕は度外視した。仕事より家庭が大事だった。その時に自分へ言い聞かせていたのは、回りに流されて無理をしないこと、穏やかであること、ゆっくりユックリ、一度に全部テキパキやろうとしないこと、、、、、効率を考え出世に早る猛烈(もうれつ)社員とは別な道を、僕は歩いて来た。今この家族がノンビリ暮らせるだけの生活費を稼げれば、それで良い。そんな考え方は、時代の潮流に竿(さお)を差し、抵抗が大きかった。

 でも、今となっては、皆もう過ぎたことだ。面倒(めんどう)は有ったけど、その面倒の分まで懐かしい思い出となった。琥珀(こはく)色の時間フィルターを通すと、どうして皆が皆こうも綺麗(きれい)な色合いに見えるのだろう。当時その現場では、何とも辛くて、息苦しくて、全然やりきれない思いだったのに。

 永らく苦楽を共にし、苦労させた糟糠(そうこう)の妻(つま)を、大切にしよう。古墳の若夫婦も多分いつか僕らのように思う時が来るだろう。
     一月十日(成人の日)晴れ N公園にて
                            (日記より)              

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