病み上がりの行楽(続き)

   日記より28-10「病み上がりの行楽」(続き)    H夕闇
              十月二日(水曜日)晴れ+真夏日
 急ぎ朝食。こういう場合い、僕は青天井(あおてんじょう)の下で頬張(ほおば)る握り飯を美味とする。これに朝ご飯の残りで応じるのが、家内の常である。だが、今回は例外だった。地元の主婦らが作るらしい(いなか風の)お握りが行く先の「s町観光物産交流館」で売っていることを、僕らは知っていた。
 八時前には最寄(もよ)り駅から乗車。当日の朝ふいに思い立ち、直(ただ)ちに車窓の人となる。その自由を、満員電車の中の人々を見渡し乍(なが)ら、僕はツクヅク感じた。僕も勤め人だった時、そんな気軽な身分に憧(あこが)れたものだ。
 サラリー・マンなら、金銭には余り不自由すまい。でも、体が思うに任せず、女房子供を路頭に迷わす訳には行(い)かない。僕は今(年金暮らしだが、)暇(ひま)だけは有り余る程に持っている。金と時、どちらが豊かか。
 命の残り時間が少ないじゃないか、と反駁(はんばく)する向きも有ろう。然(しか)し、余命が有っても、仕事の都合(つごう)に拘束されず(思う存分いつでも)旅立てるのでないのなら、それは職場で既に死んだも同然である。休日だの余暇だのは、与えられた時間だ。晴れた日ふと思い立って遠出する自在さが無い。いずれが恵まれた境遇か。   
 僕は停年を待ち焦(こ)がれ、再雇用など申し込まずに、サッサと退職したのだった。旅もだが、読み書きが三度の飯より好きなのだ。料理を覚える暇(ひま)が有ったら、より良い日記を物にし、最大多数の本と出会いたい。
 暇人二人は列車を乗り継ぎ、H駅で下車。大河の土手道を(桜の並み木道を)そぞろ歩いた。僕らは毎春ここを訪れたものだが、コロナ以降スッカリ御無沙汰(ごぶさた)している。今は季節が違い、遠い蔵王連峰に雪は無い。道の半(なか)ばに、数年前「s千桜橋(せんおうきょう)」と云(い)う陸橋が出来て、H城址公園へ(国道を越えて)渡るのに便利である。
 けさニュースで見た映像は、ここの山腹の花園で、曼殊沙華(まんじゅしゃげ)(彼岸花)が真っ赤に咲き揃(そろ)う。暫(しば)し散策して、観光物産交流館へ。僕らは目当ての物を買った。一個(税込み)百三十円。五年前は百円だった、と妻は記憶するが、ウクライナ侵攻で諸物価高騰の折(お)り柄(から)、握り拳(こぶし)を越える大きさでは釣りが来る。コンビニお握りの倍以上は有りそうな体積である。おこわの握り飯を家内は選び、のりの付いた昆布(こんぶ)お握りは僕。
 それをリュックに背負い、H山頂を目指した。登山用ストックを手放したのを、妻は後悔したに違い無い。「緩い坂道」の方を採(と)ったが、筋肉痛は覚悟した。初老の人は、東屋(あずまや)とベンチ毎(ごと)に小休止。出発前りんごを妻が手早く剥(む)いて来たが、前々日(日曜日)むすこにA神社へドライブに誘われて買った和菓子も旨(うま)かった。
 そして、何より、昼食には特大お握り。小高い丘の上のウッド・デッキから見渡せば、さっきテクテク歩いて来た堤(つつみ)の並み木道や、滔々(とうとう)と流れる大河が、小さく見える。来し方を省(かえり)みる気分で、遠く広くなった下界の風景も味わい乍(なが)ら、塩気の効(き)いた握り飯を頬張(ほおば)っては、水筒の茶を含む。少し温(ぬる)くなったが、猫舌の僕には良い塩梅(あんばい)だ。お握りを半分で交換し、二種類を賞味するのも一興である。
 高台に涼風がソヨ吹いた。そして昼間っから虫の音が高い。そうかと思うと、近くの大木で日暮らしが鳴く。つくつくぼうしは、イーヨーイーヨーと僕らには聞こえる。幼い頃、末の娘が、兄や姉の持ち物を羨(うらや)ましがり(自分も欲(ほ)しいと訴える時)「良いよお、良いよお。」と言ったのを懐旧して、夫婦で笑った。
 腹(はら)拵(ごしら)えが出来て、僕らは下山。陸橋を渡って、元の土手道へ戻った。さて、ここからH駅へ引き返すなら、余り遠くない。反対に次ぎのO駅まで足を伸ばすのは、病み上がりの行楽としては過重だろう、と僕は危(あや)踏(ぶ)んだ。けれども、家内は躊躇(ちゅうちょ)なくO方面へ遠出を選んだ。自信タップリの遠足である。
 更に、O町では旧市街を巡(めぐ)った。メニューの模型(フィギュア)をショー・ウインドーに陳列する食堂、白壁の半(なか)ば落ちた古い土倉。古本屋を漁(あさ)り、クレジット・カードなど使えない八百屋(やおや)を冷やかした後、嘗(かつ)て僕がZ分校に勤めた時期に利用した路線バスの駅前バス停へ辿(たど)り着いた。
 その時刻表に依(よ)ると、一日三便だけT温泉へ通う。あの頃も鄙(ひな)びた沿線だったが、便数が更に減った。この正月に伜(せがれ)の車に乗せられて日帰り入浴したが、その贅沢(ぜいたく)に僕は湯煙りの中で隔世の感を嚙(か)み締(し)めた。

 H駅からO駅まで三点六キロ、と路傍の道標(みちしるべ)に有った。その上、H山に登り、Oの町歩きもしたのだから、とて妻は翌朝の散歩をサボる予告を昨日していた。
 それが、けさS川の対岸の道(僕の眼前)を、果たして筋肉痛も無い様子で、サッサと軽快に歩いて行った。この分では、僕より永生きするものと思われる。かくして、僕は又もや草取りを先送りする次第(しだい)である。
 合流点で家内がN川沿いに折り返し、対岸のアパートの陰に姿を消した。その後、(五時半を過ぎて、)日の出を迎えた。ベンチの土手の遥か東方、高い鉄塔の左脇(わき)に、モヤモヤした朱(あけ)色が輝いていた。雲の縁(ふち)の黄金(こがね)色や逆光の山(やま)の端(は)と混(こん)然(ぜん)一体。その光りの塊(かたまり)の中心が、交錯した鉄骨の枠組(わくぐ)みの中へ(右上方へ)ユックリ移動し、軈(やが)ては鉄塔の縁取りの外側へ逸(そ)れて昇った。
 太陽の上昇の角度は(軌跡をザっと目測すると、)約四十五度。あの鉄塔の黒いシルエットの中を朝日が昇天する光景を目にしたい、と以前に願ったが、直角二等辺三角形の底角ほど斜めに上るのでは、それは望めない。只、斜(はす)交(か)いに横切るだけだった。
 又、秋の彼岸を過ぎた本日の日付けから判断して、あの送電線の鉄塔は真東(磁方位九十度)より少し右(南)へ振れていることが知れた。僕のベンチから、恐らく三時半の方向だろう。
 それら理科の勉強をしてから、僕は庭へ回り、じょうろで朝顔のプランターに水を撒(ま)いた。二階の僕の寝室の窓とベランダの手(て)摺(す)りまで蔓(つる)を伸ばし、成長が殆(ほとん)ど止まったようだ。花の盛りの盆過ぎ、花数は百を越えたろうが、もう今は随分(ずいぶん)と減った。毎朝十数個といった所(ところ)か。
 今年は花の色が変わった。春先に加えた肥料がアルカリ性だったのか、去年まで赤花ばかりだったのが、青っぽい花が混って咲いた。赤と青の他、中間色あり、濃淡も有り。それは彩(いろど)りに富んで見事(みごと)だった。
 今を盛りと咲くのは、土手の秋桜(コスモス)だ。赤、白、ピンク、それにオレンジ色。花数も色合いも豊かな上に、草丈も高く、見上げる程だ。尤(もっと)も、背が高い分、風に揺られると脆(もろ)く倒れてしまうのが、玉に傷である。
 H城址公園だけではなく、N川の対岸T地区の堤も、曼殊沙華が満開で、斜面が赤い絨緞(じゅうたん)のよう。見物に訪れた沢山(たくさん)の自動車が河川敷きに駐(と)まっているが、我が家の台所からは、居(い)乍らにして見渡せる。特等席だ。
 ここ数日、二階まで庭の金木犀(きんもくせい)が匂(にお)って来る。娘の便(たよ)りに依ると、保育園へ通うZ川の畔(ほとり)にも金木犀が生えていて、孫が鼻をクンクンするそうだ。
 もう十月なのに、本日は三十度を越えた。あしたは十度も下がる予報。雨の重みで花たちが、、、、、秋雨前線が南北に揺れるのが原因だそうだが、この寒暖差で孫が又々体調を崩さねば良いが。   (日記より)

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