「きみはそのままでいいんだよ」の真意
「きみはそのままでいいんだよ」
言われたことがある人は結構いる気がする。この言葉は自己肯定感が低い人、もっと言うと、こじらせている人に向けられることが多い。言われた本人は「このままじゃダメなのに、変わりたいのに」と思う。
私自身、20歳を過ぎたころからよく言われてきた。そのたびに「どうしてそんなこと言うの?」と苦虫を噛み潰したような顔をした。
そのままでいい――当時の私には、成長しようとするのを止める悪魔の囁きにも聞こえていたからだ。
どうすれば傷つかずにすむのだろう?
きっと誰もが、他人に裏切られたり、失敗を重ねて大人になる。賢い人は反省点を見つけ出し、過ちを繰り返さないようにする。しかし私は「どうすれば傷つかずにすむのだろう?」と考えるようになった。
私のような人にとって「キャラ設定」は便利だ。与えられた役割を演じてしまえば、空気という名の台本を読めばいいだけ。適当にやりすごしていれば、誰からも傷つけられない。
「ここは退屈、迎えに来て」
1人でいるときに、自由に振る舞えればいい。ある意味万能感に近い。他者と距離を置いて過ごすことを自立と勘違いする人も多そうだ。
これはキャラにすがる人だけに言えることではない。例えば「これは違う、あれは違う」と、自分と異なる存在を跳ね除けてしまう人も同じだろう。共通しているのは、自らの心に「扉」を設定してしまう点だ。
でも、その先に待っているのは孤独と退屈。傷つくことを恐れるあまり、感情を凍らせた帰結だ。「本当の自分はどこに?」「消耗してる感じがする」「ここから連れ出して欲しい」「このままでいいんだろうか」。
そんな人に投げられる「きみはそのままでいいんだよ」。この言葉を数年ぶりに聞いたとき、ようやく答えを見つけた。
なんだ、こんなことだったのか
「傷つく心の力」で知られるブレネー・ブラウン教授は、TEDの壇上でこうスピーチした。
人との関係をこじらせることへの恐れが「恥」です。自分が気が付いていないだけで、人と関わるに値しない何か、人から嫌われる、疎まれる何かが自分にはあるのではないだろうか? こんな風に誰もが一度は思うものです。
このような気持ちはすべて自信の無さに裏付けされています。人から認められて愛されるためには「もっと素晴らしい人」にならなければならないという信念から「恥」が生まれるのです。でも、人とこころを通わせるためには、私たちは自らをさらけ出す必要があります。
これこそが「きみはそのままでいい」の真意だろう。もっと簡単に言うと「自分に素直になる」こと。
もちろん、誰にでも心を開くのは危険だ。無防備な状態で生きていけるほど世の中は甘くない。だからこそ、相手は選びたい。
そういったときに、"相手に受け入れてもらいたいから下手に出る(尽くす)"のは間違いだ。自己評価の低い私は、下手に出ては承認を他人に求めていた。でも本当は、見返りを求める時点で相手を信頼していないことになる。
相手の社会的立場や価値観の違い。大人になるほどに考えなければいけないことはたくさんある。
SNSにはそんな材料がたくさん散らばっている。誰と仲がいい、こんな価値観、どんなものが好きなのか……。確かに人間性は出るだろう、でもそんなことはごく一部でしかない。
怖がらなくていい、強がったり、見栄をはらなくていい、完璧でなくていい、いい子にならなきゃと思わなくてもいい。
心から信頼してくれる人に、さらけだせばいいのだ。私の目の前にいるその人のその顔が、何よりも純粋な存在。それでいい。
気がついたら…
人は「自分はこういうキャラだから」、「これは違う、あれは違う」と枠をくくっては、不確かなものに正解を求めがちだ。他人と距離をおけば、一人の自由を獲得でき、傷つくこともなくなる。けれどもその先にあるのは孤独と退屈だ。
「迎えに来てくれる」人を見つけて、素直な自分で接してみる。そうすると、一気に視野が開けるのだ。
誰かと向き合うと、予期しないことがたくさん起きる。せっかく作り上げてきた自分が壊れてしまうかもしれない。でも大丈夫。壊れたところで誰も咎めない。
かつて「もう済んだと決めつけて、損したことありませんか? 閉ざされた扉開ける呪文 今度こそあなたに届くといいな」と宇多田ヒカルは歌っていた。私にとっては、その呪文が「きみはそのままでいい」なのだろう。
この言葉は必ずしも成長をとめる甘言ではなかった。
予期できてしまう未来ばかりなんて退屈だ。だから人は誰かとコミュニケーションをとるのだろう。扉を開けてもらうために。
気がつけば、自己肯定の話が他者との関わりの話になっている。でも、きっとこれがすべて。
Photo credit: Reiterlied / Flickr / CC BY-NC-SA
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