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共テのヒス構文について、ラブドール
今日、というか昨日、共通テストのヒス構文の件についてわりとぶち切れてた。
そもそも共通テストのヒス構文の件ってなに?って知らない人のために説明すると、今年の共通テストの国語の第2問で出題された詩人の蜂飼耳(はちかい・みみ)さんの小説「繭の遊戯」の一節で「もうわかった、あたしが死ねばいいんでしょ、じゃあ、死ぬよ」という台詞が登場して、これがSNSで「ヒス構文」として話題になってるらしい。
はっきり言って、自分的にはこのセリフのどこが面白いのか全くわからなかった。どこが笑えるのか全くわからなかった。
むしろ、極めて不快だった。
先に言っておくけど、このセリフというのはそもそも主人公の母親と祖母の口論が激化している様子を描写したシーンなのだからそれ自体には全く問題はないと思うし、自分はこのセリフに難癖をつける気は毛頭ない。
いっぽうで、Twitterでは、この問題の一節について「共テ国語で所謂「お母さんヒス構文」が出題された件、普通の人にとっては笑い話で済むかもしれない
実際そういう家庭で育った人間に対しては(出題者の立場を利用して)半強制的にトラウマを想起させる歴然とした加害だし、それが試験結果に影響を及ぼすことも十分考えられるわけで あまりにも浅慮だ」(原文ママ)というツイートがあった。
正直、このツイートには一部共感した。
実際に現在進行形で毒親に苦しめられている人たち、毒親の元から逃げ出しても未だに心の傷が残っている人たちの存在を考えると何一つ笑えないし、これをキャッキャとネタにしてる人達の神経と感性が一切理解できなかった。
ただ、このツイートに対して
「文学や文芸を何や思てますのん?(笑)
笑気がマッハ8超えてまいますわ(笑)」
「別にお母さんヒス構文が出題って言っても、文章内のセリフ1つだけだし、文章の主題には全く掠らない些細なもので、設問もそこの部分自体を詰めるような問題はなかったと思うんだけど、そんな一節にも満たない台詞を読んで取り乱す受験生って単純に試験受けてるような精神状態じゃないんじゃねぇのか?」
「でもさぁ、それが無くていい大学入って会社に寄生しても、意味がないわけよ。
どこかでそう言う大一番は来るから、大学受験ってタイミングは、悪くはないと思うぞ。」
「残念ながら、これで試験に影響出ちゃう人は高等教育に向いてないので、別の生き方を選ばれた方がよいです。高等教育とはそういうものです。」
「だるすぎる。そんなこと言ってたらキリがない」
「だまれよ笑
気にするやつは共テ受けるな笑笑」
「俺三角関数トラウマだわ 加害だからもう出題しないでくれ」
「ヒスりまくっててホンマおもろいw」
はっきり言って吐き気がした。寒気がした。
本当に反吐が出る。
心の底からふざけんじゃねぇよって思った。
この人のリプに関しては確かに共感できて
「特定の状況で育った人に対する配慮は大切だけどそれをすべての試験問題に求めると、テスト設計が成り立たなくなるし試験は一般的な能力を公平に測定するための場で完全な個別配慮までは難しい。この問題を「浅慮」とするのは議論として飛躍があるし、それを「加害」と捉えるのは過剰な解釈。」
そもそも年間50万人以上の受験者がいる共通テストで誰がどういうトラウマを抱えていて、どういう表現や文章がフラッシュバックや精神的動揺を引き起こす「トリガー」となるかとか、そういう事態を完全に防ぐというのは最早不可能に近いし、それを「配慮が足りない」とか「加害」と呼ぶのは論理が飛躍した極端すぎる解釈だと思う。
ただ、このツイート主の方はそういうことを言いたかった訳じゃなかったんだと思う。もっと言えば、このツイートの本質は多分違うところにあると思う。
「ヒステリック構文という現実に明確な被害者や苦しんでいる人達がいるような事象を面白おかしくネタにして、実際の被害者や加害者、その問題自体さえも矮小化し蹂躙するような態度がおかしい」という事なんじゃないかなと思った。もちろん自分の勝手な憶測。
どちらかといえば、自分がそう感じた。
この共通テストの「ヒス構文」の件、自分はものすごく、色んな事が凝縮されているなって思った。
トラウマと傷痕。
その傷痕に塩を塗るような人々。
人の悪意。無理解。傲慢。欺瞞。嗜虐。
そして「加害行為」
どうして「モンスター」が生まれるのか。
どうして人は時に「悪魔」になってしまうのか。
そもそも被害者と加害者の違いとはなんだろうか。
共通テストのヒス構文、このツイート、それに対するリプ、その全てにこの世の悲劇や悪の本質が凝縮されてるなって思った。
さっき、風呂に入っている時、ふと性犯罪者のことを考えていた。
小児性愛者。サディズム。ネクロフィリア。
「異常性癖」と呼ばれる存在。
彼等、あるいは彼女等によって「餌食」にされる人々。
それは、まるで人を人として扱わず、ラブドールみたいに。
心が備わっている筈の人であるのに、人が同じ人を、人が人でなくなってしまう。
「子供らを被害者にも加害者にもせずに この街で暮らすため まず何をすべきだろう?」
「でももしも被害者に 加害者になったとき 出来ることと言えば 涙を流し 瞼を腫らし 祈るほかにないのか?」
Mr.Childrenのタガタメという曲の歌詞。
性犯罪のニュースだと、ネットでは「死刑にしろ」とか「去勢しろ」という意見をよく目にする。
もし「それだけで」解決するならば、人道的には反するかもしれないけれど、そうするべきかもしれない。
ただ、現実として、そういう訳でもない。
そもそも彼等、彼女等が「異常な性癖」を抱えていること、それは果たして本人たちの責任なのだろうか?
脳科学の話で言うと、人間は「決して現実でやっちゃいけない欲望」を脳内で抱くことはあって、ただ、その欲望を実際の行動に移さない為の機能を果たしているのが大脳皮質、とくに前頭葉の働きだとされてる。
ただ、所謂サイコパスと呼ばれる人たちの脳というのは、前頭前野と扁桃体周囲の活動が普通の人の脳と比べて著しく低下していて、この領域の活動が低下すると、人は衝動的になるらしく、他人の感情を共有する事に大きな障害が起きる可能性が高いということ。
つまり、所謂サイコパスと呼ばれる人達は脳自体が先天的に異常ということ。
人の感情、人格というのはある意味ほとんど脳の構造によって作り出されるものだから、もし脳の異常が原因で「異常な性癖」を抱えていたり、それによって犯罪を起こしてしまったりしても、それを全て本人の責任に出来るだろうか?
さらに言えば、先天的には脳に異常が無くても、後天的な要因、つまり親からの虐待も脳に深刻なダメージを与えることが科学的に証明されている。
親からの暴言、体罰、さらに夫婦間のDVを目撃させる事によって大脳皮質の部分にダメージが入り知能や理解力の発達に悪影響が出たり、前頭前野の部分にダメージが入り集中力・意思決定力・共感性・抑制力・物事を認知する能力が障害されて、結果的に感情障害や素行障害に繋がると言われている。
つまり結論として何が言いたいかというと、果たして「異常性癖を抱えている人たち」は果たして全て本人たちの責任といえるのか、その異常な性癖は本人が望んで獲得したものか、というところ。
ただ、この文面だと「性犯罪を擁護している!」などと歪曲された捉え方をされそうなので、一応書いておくけれど、自分は上に書いたミスチルの歌詞のように「人が被害者にも加害者にもならない為にはどうすればいいか」を考えているだけ。
だから「加害者にただ厳罰を与えても本質的には何も解決しないよ」って言ってるだけ。
被害者、つまり犠牲になる人間が消える訳でもない。
そこで2つ実際に起きた事件を紹介したい。
2020年8月、福岡の商業施設「マークイズ福岡ももち」のトイレで21歳の女性が殺害された事件があった。
犯人は当時15歳の少年だった。
彼は事件の数日前に少年院を仮退院していて、田川市の更生保護施設から抜け出して、バスで天神まで移動し、その後に起こした事件だった。
彼はその後、街中で女性(被害者となった女性とは別人)を見かけて「性行為がしたい」と考えて、その女性についていき、現場の商業施設に到着してそこにたまたま買い物に訪れていた被害者の女性を見かけてトイレまでついていき刃物を突きつけたところ女性に自首を促されて逆上。包丁で女性を滅多刺しにして殺害したという事件だ。
事件の概要だけを聞けば、あまりに残酷で身勝手極まりない事件で、この少年のどこに同情の余地があるんだと思われるかもしれないが、この少年の生い立ちが彼の心理鑑定を担当した児童虐待を専門とする大学教授さえ絶句するほど壮絶なものだった。
彼は身体的虐待、心理的虐待、ネグレクト、性的虐待の全てが存在する家庭で育った。
母は長女には関わるが彼を含めた2人の兄弟に対しては興味が薄弱で、普段から少年に対して「死ねばいい」などと暴言を吐いたり、包丁で追いかけ回したり、さらには両親の性行為を少年が目撃したり、少年の兄と母の間で近親相姦に近い行為があったり、兄が少年に対してエアガンで打ったり性加害を加えたりなど、この少年の家庭はあまりに常軌を逸している環境だった。
その結果、他の児童の首を絞めたり噛み付いたり保育士を骨折させるなどの著しい粗暴性が芽生えたり、希死念慮を抱えて何度も自殺未遂を繰り返したり、人前で自慰行為を行うなどの問題が突出し、10歳頃から精神科や自立支援施設や児童心理治療施設や少年院などを転々としていた。
そして彼は当時15歳という年齢では極めて異例となる刑事裁判にかけられ、結果として「このまま社会に復帰すれば再び同じことが起きる」と少年院での適切な教育と更生を求めた弁護側に対して「小学5年生以降、虐待を受ける事の無い施設などに入所していた為に人格的な未熟さや生育歴などを考慮するのにも限界があり、それを理由に保護処分に処すのは社会が許さない」と懲役10年〜15年の不定期刑の判決が言い渡され、少年側が控訴しなかった為にそのまま確定した。
彼にとって1番人の温もりを感じられた場所は少年院だったという。
これほどまでに悲しい事件があるだろうか。
彼は1から10まで何もかもが狂った家庭で育って、本来誰にでも保障されるべき人権と幸福が一切存在せず、結果的に何の罪もない女性の命を奪う「加害者」となってしまった。
申し訳ないけれど、この生い立ちまで全てを知って、それでも「この少年が全て悪い」と言える人間を自分は「人」だと思えない。
この事件は内容的に酷すぎて報道規制がかかってるのか知らないけど、あんま報道されていなくて、知名度はそこまで高いと言えない事件だけれど、実はこの事件に関してはWikipediaの記事を9割くらいを自分が書いたくらいには個人的に思い入れが本当に深い事件で、この事件を思い出す度に
「被害者って誰だろう?加害者って誰だろう?刑罰って何だろう?更生って何だろう?福祉って何だろう?、そして社会はどう在るべきなのだろうか?」
といった疑問が次々に浮かぶ事件で、この事件に関しては最早「社会全体の問題」として、社会を生きる我々1人1人が考えなければいけない事だと思ってる。
まるで人を人と思わないような、人を滅多刺しにする凶行を起こした少年。
ただ、その少年もまた1から10全てが狂った家庭で母親や兄から人として扱ってもらえていなかった。
彼は「ラブドール」として弄ばれ続けた。
ここでもう1つ、実際にあった事件を紹介したい。
最近、2022年3月に浜松市で祖父母と兄の家族3人を殺害した25歳の被告に懲役30年の判決が言い渡された。
彼もまたあまりにも凄惨すぎる生い立ちだった。
父と兄は彼に対して小学校低学年から中学2年まで日常的に殴るなどの虐待を振るい、目の前で母に暴力を振るう様子を見せられ、さらに兄からは尿をかけられたり飲まされたり、日常的に性暴力を受け、祖父母からは「金をあげるから母親に暴力を振るって欲しい」と依頼されるなど、彼もまた1から10全てが狂った家庭で育った。
彼はその後、警察学校に入学したものの、PTSDによるフラッシュバックに悩まされ、1年後に警察官を辞職。そして浜松の実家に戻った後に解離性同一性障害の症状により2人の別人格が現れるようになったという。
1人は「りょうくん」という虐待を肩代わりしていた人格で、もう1人は「ボウイ」という人格で、ボウイから「家族は悪魔だ。俺が痛みを教えてやる」と言われ続けていたらしい。事件当時はこの「ボウイ」が自らの身体を乗っ取り3人を殺害したと主張していた。
弁護側も「別人格によるもので行動を制御できない状態だった」と心神喪失を主張したが、結果的には「別のパーソナリティ状態を含んだ一個人であり、事件当時は解離性同一性障害により解離状態だったが、一貫した行動を取れて連続性が保たれている(?)」と完全責任能力を認定し、懲役30年判決を言い渡された。
一応、検察側による求刑自体は無期懲役だったものの、家庭環境を考慮して懲役30年となった。
そして裁判長は最後、彼に対して説論を述べた。
「社会復帰後は堅実に生き、被害者家族への償いを果たしてほしい」
一体何を言っているんだろうか。
確かに「道徳的、法律的に考えたら3人を殺害したのは彼であるし、被害者に償わなければいけない」という理屈は理解できるけれど、感情的に考えて、彼の人権や尊厳を踏み躙り続けた、彼の心を殺し続けた「加害者」は紛れもなく「被害者」となった家族である。
さっきの福岡の事件と同じく、一体「被害者」とは何だろうか。一体「加害者」とは何だろうか。そもそも「何年間も本来あるはずの人権や尊厳を奪われ続けた彼に対して懲役30年という厳罰を与えることは果たして正義と言えるのだろうか」と思わずにはいられない。
彼もまた「加害者」によって「ラブドール」として弄ばれ続けてきたのだ。
正義とは何だろうか。
厳罰を求める「善良な市民」とは何だろう。
「生育歴などを理由に保護処分に処するのは社会が許さない」
この文章は本当に、色んな事が凝縮されていると思う。
何年間も人権や尊厳を踏み躙られ、ラブドールのように弄ばされ、完全に人生を破壊された少年に更生のチャンスを与える事を許さない社会とは一体何なのだろう。
さらにもっと掘り下げれば、これは「彼の更生」という話だけじゃなく「二度と被害者を生まない為に、二度と彼を再び加害者にさせない為に」というところ。
それを考えた時、福岡の事件に関しては「社会が許さないから」と言って刑務所に入れるのではなく、心の治療や教育や更生に重点を置ける少年院に入れた方が絶対に良かったと個人的には思っている。今でもずっと。
少年院にも何個か種類があって、特に心身に著しい問題を抱えた少年少女は医療少年院に入るのだけれど、医療少年院は延長すると最大6年まで少年少女を収容する事が可能で、そもそも少年院に送る事自体が「保護処分」つまり「刑罰」ではなく「矯正教育」に重点を置かれたアプローチが行われる場所だから、福岡の彼の場合は彼の為の教育のプログラムを組んで「彼自身を二度と加害者にさせない為、そして二度と被害者を生まない為」に全力で治療や教育を施すべきだったと思う。
刑務所でも、今年から「懲役」から「拘禁」に変わるらしく、出所後を見据えた支援や更生プログラムを行ったりする取り組みが行われているらしいけれど、そもそも「厳罰=凶悪事件抑止」はある程度は効果があるかもしれないけれど、根本的に間違っていると思う。
何故ならば、厳罰を課したところでこの世から凶悪事件が無くなる訳でもないから。凶悪事件による被害者が生まれなくなる訳でもないから。
それならば「二度と新たな被害者を生まない為にはどうすればいいか」を考えた時、加害者にも十分な教育や治療や支援を行わなければいけないと思う。
そして、根っこの部分。本質。
「残酷な事件は いつの日からか みんなの一番の退屈しのぎ」
「残酷性が高ければ高いほど 週刊誌は飛ぶように売れる」
ブランキージェットシティの「悪い人たち」の歌詞だけれど、これが本質だなって思う。
結局のところ、ワイドショーの前の民衆は口では「悲しい」とか「二度とこんな事件を繰り返してはいけない」と言うけれど、いざ彼等彼女等に「じゃあ何が出来るだろう?」って問うてみても、きっと彼等彼女等は沈黙すると思う。
何故って、ただの退屈しのぎだから。ただの非日常感を楽しむエンターテイメントショーだから。
だから、そりゃ当然どうすれば悲しい事件がこの世から無くなるかなんて考えてもいないし、むしろ心のどこかで求めてすらいると思う。
強欲な民衆はいつも「生贄」を探している。
民衆の欲望やエゴの為に犠牲になってもらう生贄。
それは誰でもいい。
政治家。ミュージシャン。芸能人。俳優。アイドル。YouTuber。はたまた一般人。自分の家族や恋人や友達。
とにかく誰かを一方的に悪者に仕立て上げて、生贄として「正義」の名目でみんなで叩き潰す。
その生贄を嬲る事に飽きたら、また次の生贄を探す。そうして生贄を入れ替え続ける。
それでも僕ら民衆はあくまで「善良な一般市民」の体で居続ける。平然な顔をして生き続ける。どれだけ世界が狂っていようが、まるでそれが正常みたいに過ごし続ける。
だから週刊誌もゴシップ誌も一生無くならないんよ。
常に需要があるから。きっと需要が無くなって週刊誌が無くなる時が来たらそれは「人間から一切の興味と感情が無くなった日」だから。
どんなに狡猾で悪どい独裁者を殺しても、逆に人々を救うと自負するスーパーヒーローが現れても、残念な事にこの世は決して平和になんてならない。人間がいる限り。
昔、自分と関わりのあった女子高生の子がこんな事を言ってた。
「今日は酒鬼薔薇事件のことを友達のギャルちゃんに話した!酒鬼薔薇に会いたい!」
その時は自分も今くらい考えや私見が深くなかったから何も思わなかったけれど、今考えれば本当に「ふざけんじゃねぇよ」って思う。
酒鬼薔薇によって殺されてしまった女の子と男の子、死にはしなかったけど被害に遭った女の子や男の子、そして愛する息子・娘を奪われたその遺族や友達、更に言えば、母親によって日常的に体罰を受けていた彼(敢えて酒鬼薔薇と呼ばない)、唯一の心の拠り所だった祖母が亡くなって、サディズムによる猫殺しや殺人の空想に耽るようになって、次第にどんどん心を閉ざしていって、孤独を深めて、彼の孤独や絶望誰も気付くことは出来ずに最終的に凶悪事件を起こしてしまった彼のこととかを考えた時、そんなふうに上辺だけの「快楽殺人」とか「サイコパス」みたいな要素を面白おかしく切り取って、キャッキャと無自覚な加害性を伴う興味だけで言うなんて、自分は口が裂けても出来ないし、あまりにも事件そのものを冒涜していると思う。
なんか、あまりに長すぎる記事になって、これを見ている人にはもはや「何の話をしてるんだ」って思われているかもしれないから、流石にそろそろ最初の話に繋げる。
「共通テストのヒス構文」と「酒鬼薔薇事件を面白おかしく娯楽感覚で冒涜していた女子高生」には自分的に共通点があって、共通点は何かって言うと、やっぱり自分は「悲しい誰かを上から目線で馬鹿にしたり踏み付けたり嘲笑ったりする事」が心の底から許せないんだと思う。
やっぱそういう事を耳にしたり目にしたりすると、どうしても「ふざけんじゃねえよ」って感情が湧き上がってしまって、怒りをコントロール出来なくなってしまう。
あ、「いやヒス構文はただのネタだろwネタをネタとして受け取れないのかよ」とか言われるかもしれないけれど、しっかりヒス構文も「悲しい誰かを馬鹿にしたり嘲笑ったり踏み付ける行為」だからね。
上で書いた2つの事件とまではいかなくても、毒親に苦しんでいる子達が沢山いる中で「ヒス構文」だの面白おかしくネタにしている事が自分にはどうしても許せないし、別の視点から言えば、その「ヒス構文を使う側の人」つまり毒親たちも虐待を受けていたり、精神疾患を抱えていたり、育児ノイローゼや仕事で精神的に疲れ切っていたりとか、一人一人事情や背景が存在する「悲しい誰か」であるわけで、そんな風に「ヒス構文」だの面白おかしく茶化す行為は毒親を持つ人にとってあまりにも冒涜だと思うし、さらにいえば毒親の問題を矮小化・歪曲化しかねないと思う。
言っておくけど、毒親の問題や虐待の問題について「そんなの甘えだ」とか「自己責任だ」とか「努力不足」だとか言っている人は絶望的に頭が悪いんだなって思う。想像力の欠如。
貧困だったり、虐待だったり、障害だったり、本人の努力ではどうにもできないものを「自己責任」として切り捨てるのなら、それこそ貴方がもしも将来的に事故で半身不随になったり、病気で寝たきり状態になったりしても、あなたが言っていた「自己責任論」を適用するなら「半身不随になったのは自己責任だろ、お前の努力不足、なのでお前のことは一切介助しねえから、自分1人の力で生きていけよ」という理屈が成立してしまうのだけれど、それはどう思うのだろう。
「助けが必要な時に一切助けて貰えなくなる社会になる」というのもそうだし、そんな社会になったら「社会や民衆から迫害された人々」による「復讐劇」つまり「凶悪事件」が多発して、今より治安は遥かに悪化すると思うし、下手すれば国としての秩序が崩壊する可能性すらあり得るわけで、普通に考えてそんな社会がいいと思う?
結局、臭い物に蓋をしていても、対岸の火事を放置し続ければ自分にまで燃え移るわけ。だからこそ社会に蔓延る問題を自分事として捉えて考えて行動していかないといけないのだけれど、日本はどうやら絶望的に思考能力も気力も意欲も健康意識も欠如している人間が多いらしい。
本当に、他人を「ラブドール」のように弄んでいいと思っている強欲で傲慢な人間ばかりだから言うけれど、
人はラブドールではない。感情のある人間。
あなたが人をラブドールのように扱っていたらあなたもラブドールみたいにしか扱われねぇよ。
もしもあなたが人をラブドールではなくて、人を人として、心を持つ1人の人間として扱っていたら、絶対とは言えないけれど、あなたもちゃんと大事に「人」として扱われるはずだから。
自分もかつては本当に人一倍臆病で繊細で弱気な子供だったから、小学校の頃クラスメイトからラブドールみたいに扱われてきて、それで小学2年生くらいの時に不登校になって、小学4年生の時にTwitterを始めて、自分自身の心を守る為に狂犬みたいに吠えるようになって、他人を「ラブドール」みたいに扱うようになった。
その時に傷付けてきた人には本当にずっと申し訳ないと思ってる。
その調子でずっとやってきて、周りの人間からもほとんど「人」じゃなく「ラブドール」として扱われてきたけれど、結局、自分って根っこは素直だから、心ある人に初めて弱い自分を隠し通す為の「鎧」を見透かされて、そっから次第に心の鎧が溶けていって、その人が1番最初に自分の「心」を見てくれた人だと思ってる。
そこから色んな人に出会って、何度もやらかして、何度も絶縁されて、何度も心が折れて、何度も立ち上がって、何度も試行錯誤した結果、今の自分が此処にいるから、多分noteで何度も綴っている通り「現在進行形」で自分と仲良くしてくれている人も「そうじゃない人」にも、本当に心から感謝してる。
こんなにも出来た人間じゃないのに、自分の心を見てくれてありがとうって。
今は心ある友達に囲まれていて、とても幸せだし、本当にありがたいけれど、でも何だか「友達がいるのが当然」みたいに時々感覚が麻痺してきて、過去の自分の事を忘れてしまいそうになるけれど、過去の自分を忘れるということは自分にとってはある種「自分を殺す」事と同義だと思っているから、当たり前の事は当たり前じゃないなっていうのは忘れたくないし、感謝も何より忘れたくない。
いつもありがとう。
書きたいことは全て書けたからここらにする。
ここまで読んでくれた方がいるかはわからないけれど、ここまで読んでくれた方にどうか幸がありますように……
と言おうとしたけど、これじゃ「自分が軽蔑している人間」にも幸を願ってしまうから、イイネした方にだけ幸あれ……
と言おうとしたけど、やっぱそれはそれで選民思想みたいになって嫌だな。というわけで、ありがとう。