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それはハートか猪目の窓か

猪目いのめ事件

 Facebookのとあるグループにおいて、2024年11月23日(土)に開催する旧川本楼(大和郡山市洞泉寺町)のイベント告知を行った。その際にハートが三つ並んでいる写真を添えて、「このハート窓がどこにもない佇まいでとても素敵です」と投稿した(下の写真参照)。旧川本楼(町家物語館)の代名詞とも言えるこの窓の意匠に、多くの方が興味を持って見に来て来てくれたら!という思いで投稿していたのだが、これがまさかの集中砲火に遭ったのだ。以下ではこれを「猪目事件」とし、これを徹底的に調査する。

猪目事件の元凶となった投稿

この意匠はハートではない!?

 本来の目的は、イベント告知。しかし、集中砲火されたのはこのイベントに対してではなく、「ハート窓」と書いたのが問題だったようだ。
 もちろん、私は2018年のオープン当初から旧川本楼(町家物語館)に通い詰め、ここのガイド指針の作成をお手伝いしたことがある。また、この旧川本楼が私自身の研究対象そのものなので、この窓を「猪目窓」と言う方がいるのも知っているし、奈良県の観光のページにも「猪目窓いのめまど」と書いてあることも知っている。でも、あえて「ハート窓」としたのである。これには、理由があるからなのだが、詳細は後述する。

ところで、件の投稿に対するコメントをみてみると・・・

①のコメント
時折思うのですが、大正時代に建築された町家物語館の建物に「♡」模様が採用されているのを「ハート」と言って建築されたのかを疑問に感じることがあります。なぜならば、大正時代に「♡ハート」の模様が日本に広まっていたのだろうか?歴史的に知りたいです。

これだけのコメントならば、私自身も「ご質問ありがとうございます」と説明が始められるのであるが、この先の内容を見てやめた。

①のコメント続き
なぜならば日本建築の屋根瓦の鬼瓦や懸魚などには古くから「♡」文様が使用されていてこの文様はイノシシの目をデザインされていて、火伏の魔除けとして「猪目」として使用されていることから「猪目」文様ではないかと思ってましたので、京都の正寿院の茶室には素晴らしい「猪目窓」があります・・・

というような説明が始まるのだ。私はこのとき、自説をお持ちになる方にいろいろ説明したところで、おそらくこの場が荒れてしまうだろうと判断して、あえて反論しなかった。
するとその後、立て続けに「猪目派」の集中砲火投稿が始まった。

②のコメント
伝統的建築で見られるのはハートマークの概念ではなく「猪目」です。

③のコメント
私も猪目をハートと描くことについて。日本に今根付いているものはこれに限らず、きちんと意味があっての事。何でもかんでも西洋風に置き換えるのはいかがなものかと違和感を覚えます。色々人それぞれ考えはあると思いますが、せっかく先日達ママ気づいてママ来た物を無かったのようにされるのはとても悲しいです。

④のコメント
私も「猪の目」をリサーチした時にこの窓を見ました。こちらで紹介しています。
(「猪目で厄除け運気アップ」のURL表示)

⑤のコメント
『猪目』だよと仰る方の意見には概ね同意ですし、安易に猪目とハートマークを同意に語ったり、まして猪目のルーツが西洋のハートマークのように改変されるような事態が起きる将来は看過できません。
ただ、文明開花も昔話になった大正時代に、女と男の夢物語を彩る遊郭に西洋の『心臓、生命、魂、心』等々を象徴したハートマークに似た猪目を衣装に取り入れた意図は知りたいですよね。案外施主や棟梁がハートの意味を学んだ上で、洒落っ気で猪目を入れたのかな、など想像は尽きないです。

⑤のコメント続き
明治神宮本宮を設計した伊藤忠太も、ふんだんに猪目を金具に取り入れたと言いますし、流行もあったのかな?どちらも『火事を起こしてくれるなよ!と設計した俺の首に関わるから!』という無言の圧力なら笑いますが。

 これらのコメントは私自身がスクショで残していたのものだが、これ以降のコメントは投稿自体を削除してしまったので残念ながら残っていない。コメントに対し一つ一つ丁寧に返していたので、他にも何人かがコメントされていたと記憶する。
 もちろん私自身は、今回の投稿は告知が目的なのでトラブルにならないように「ご意見ありがとうございます。あなたが猪目と考えることを否定するつもりはありません。ただ私は理由があってハートと考えているのでハートと投稿しました。」と返事をしていた。「もしも私の考えに興味がございましたら(何かご意見がありましたら)、当日の講演及びガイドツアーに是非お越しください」と、前向きに返していた。

ネットで調べるとは?

 ではここで、Googleを使い「猪目」を検索してみよう。それで表示された結果が以下である。1ページ目の上位4件を表示する(2024/09/20検索)。

 いかがであろう?さっきどこかで見たことのある文言がそのまま書かれていることに気づく。
これが、ネット検索の恐ろしさ。私の投稿に集中砲火を浴びせた彼らの根拠は、全てこれらの情報を見て判断した物であることがわかる。つまり、にわか知識なのである。
 しかし「ネットで調べる」というのは、どういうことだろう。このように検索して表示された内容は、「調べた」とは言わないのではないだろうか。例えばテレビで「おばあちゃんの豆知識」を見て得た情報は「テレビをみて知った知識」とはいうが、「テレビで調べた知識」とは言わないのではないか。同様に、ネット検索で得た知識は、調べたのではなく「検索した結果が表示された情報、検索で知った知識」なのである。
 だから極論を言えば、この知識はネットに落ちている雑多な情報のうちの一つでしかない。これを「調べた」のレベルまで引き上げるには、情報の信憑性や背景、他の説がないかなど、ネット検索や書籍を用いて検証する必要があると思う。調べるとは「考察を含む」言葉なのだから。
 もちろん、知らないことをネットで検索することを否定するつもりは毛頭ない。確かに私自身も、知らなかった言葉に出会ったときにネット検索をして、初めて知る知識も多い。きっと皆さんも経験があることだろう。だから、これ系の知ったかぶりコメントはよくある話なのだ。それに対して目くじらを立てるつもりも全くない。否定もしない。

問題のコメントから炎上直前まで

 ただし、⑤のコメントに大きな問題があると思ったので、これだけは指摘しておかなければと思い、その旨を返事した。その問題があるコメントとは・・・

安易に猪目とハートマークを同意に語ったり、まして猪目のルーツが西洋のハートマークのように改変されるような事態が起きる将来は看過できません。

 このように、「猪目のルーツは西洋のハートマークである」と、私が発言しているようにも取れるコメントが出されたのである。
 おそらく本人に悪気なく、そういうことを耳にした程度の意味だったのはわかるが、この流れでは第三者が見たときに私が言っているように見えてしまう。それを危惧して「そんなことは私は一切言ってません」とビシッと指摘した。
 今となれば、このとき気づかない間に私自身もエキサイトしていたと思われ、コメントに余計なひと言(本音)を書いてしまった。同じような内容をXでも呟いている。

現代の私たちにとってハートはありきたりな言葉で猪目の方が目新しい言葉なのかもしれませんが大正モダン全盛期に、わざわざそんな古めかしい言葉を使うか疑問です。

 これが原因で⑤の投稿主は反論をはじめ、私の他のSNS投稿など、情報の晒し行為が始まった。「講演も申し込み、会場に行きます」と書かれていた。これは流石に炎上確実案件!と思い、残念ながら投稿は削除することに決めた。この一連の小さなトラブルを、私は自戒を込め「猪目事件」と言っているのである。

猪目について

「猪目」という言葉の普及

 ちなみに、前述のガイド指針制作(2020年)の際にも「猪目」について検索したが、ヒットして表示される内容が現在とかなり違っている。あれから4年経過して、猪目の記事がめちゃくちゃ増えているのだ。これは何を示すのであろうか。
 おそらくこれは、紫陽花寺・花の寺のように、インスタ映えを狙った寺院の戦略の結果ではないかと私は考えている。その発端は、2015年に建立された宇治田原・正寿院の客殿にある猪目窓ではないか。

 確かに、2020年に「猪目」と検索したときにも、正寿院の「猪目窓」がヒットしていた。こんな寺があるのかと見た覚えがある。すなわち、この猪目窓が「インスタ映えの窓」と言われ人気が出たことで、このような日本建築の意匠を「猪目」であると人々が認識するようになったのではないか。もちろん正寿院がこれを「猪目窓」と言うことや、他の寺院が同じような建物意匠を「猪目」とすることに対し異論を唱えるつもりはない。猪目で正しいと思う。
しかし、旧川本楼(町家物語館)の「♡♡♡」窓の意匠は猪目なのだろうか。

百歩譲って、旧川本楼(町家物語館)の「♡♡♡」窓の意匠も、個人的に猪目と言いたければそれでいいと思う。だが「ハートではない」と否定することはできない
 ではなぜハートと考えるのか。ここではそれを説明しておきたい。

猪目とは何か

 2020年の町家物語館ガイド指針を制作した際、「猪目窓」と呼ぶことについて調べることになった。

大和郡山市の文化財保存係が作成したガイド指針


 町家物語館開館当初は、「猪目窓」だけでなく「桃尻窓」とガイドする人も居たのだが、流石にそれは普及しなかったようだ。
 様々な調査によって、猪目とは以下の写真のように寺院建築に用いられる意匠であることがわかった。

寺院の柱にある猪目の意匠(筆者撮影)
長谷寺のホームページに掲載されている様々な猪目意匠

 他にも、奈良県橿原市今井町の「駒つなぎ」や民家の持ち送りなど、近世の建造物にもこの意匠が用いられていることもわかった。

今井町の駒つなぎ(筆者撮影)
近世に建てられた民家の持ち送り
(奈良県御所市にある御所まち中井家住宅/登録有形文化財)

 これらの写真を一瞥して気づくことはないだろうか。そう、猪目はハートと比べると上下が逆さになっているのである。そもそも猪目は日本の建造物でも寺院によく用いられる意匠である。前述の長谷寺ホームページにも「懸魚(げぎょ)という屋根の合わさった場所にあったり、仏具や飾り金具という木のつなぎ目を隠す金属の装飾にあります」との説明がある。

ちなみに「意匠」を辞書で引くと以下のように説明がある。

意匠(いしょう
美術・工芸・工業製品などで、その形・色・模様・配置などについて加える装飾上の工夫。

デジタル大辞泉

 つまり意匠とは「装飾デザイン」のことなのである。
 個人的な見解ではあるが、猪目は建造物の装飾品をデザインする際、外郭線の角処理に使われているもののように見える。例えば下図のようなカリグラフィの枠線のような「角のデザイン的な処理」である。

Shutterstock 素材サイトより

 このように「角を立てない」ことを重んじる日本人だけでなく、西洋でも行われていた角処理によって、角を美しく見せることが当初の目的だったと考えられる。その後、この意匠がイノシシの目に似ていることから「猪目」と呼ばれるようになったのではないだろうか。そして様々な「謂れいわれ」や「由緒」が意匠(猪目)に当てはめられ、火伏であるとか、幸運を呼ぶとか、厄落としなどと意味付けされるようになったと考えられる。

大正期の建築様式

和洋折衷建築様式と戦前のカフェー建築

 近年、日本全国で近代建築をめぐるツアーが流行しており、熱心なファンも多い。このようなファンの間では、明治期の西洋建築のみならず、大正期の洋風建築、和洋折衷建築など、数多くの建築様式があることは周知されている。筆者もそれほど熱烈なファンではないが、近代建築が好きなため、旅先ではこれらの建築を見て写真に収めるようにしている(ちなみにFacebookでは、2016年より古民家・町家ファンのグループを運営しており、現在会員数は2.2万人である)。

大正7年築の大阪市中央公会堂(2019年/筆者撮影)
京都府・島原のきんせ旅館(2019年/筆者撮影)
内装はステンドグラス等が施され和洋折衷様式である。
大阪北浜の洋風建築(筆者撮影)

 さて、本題に話を戻そう。これら大正期の建造物の中に、戦前の花街や遊廓に関係のある「カフェー建築」というものがあることをご存知だろうか。日本では、大正後期〜昭和初期に「カフェーの女給」が一世を風靡し華やかな文化を作り上げていた。カフェーとは現在の「スタバ」や「ドトール」などの「カフェ」ではなく、当時は風俗営業の飲食店を指していた。そのカフェー建築の特徴を持ついくつかの建物を下記に掲示する。

五条楽園のカフェー建築(2019年/筆者撮影)
五条楽園のカフェー建築(2019年・筆者撮影)
貝塚市のカフェー建築(2019年・筆者撮影)

 このように、カフェー建築はアールを描いた壁や窓の意匠、モルタル製の壁、豆タイル貼り、装飾された窓、洋瓦、ステンドグラスなどの特徴がある。1920年代に大流行し、日本全国あちらこちらの歓楽街に、このようなカフェー建築が多く見られた。しかし老朽化や再開発を原因として多くのカフェー建築は姿を消してしまった。

滝田ゆうが描く玉ノ井のカフェー建築

 皆さんは、『ガロ』で連載していた人気漫画家の滝田ゆうをご存知だろうか。滝田ゆうは幼少の頃、東京市向島区寺島町(現東京都墨田区東向島)の旧私娼街玉の井(※1)で育ち、1968年、自身の少年時代をモチーフとした半自伝的作品『寺島町奇譚』を発表した。その中に下記のような私娼街玉の井のカフェー建築が描写されており、様々な意匠の窓が見える。

※1 大正12年の関東大震災で被災した私娼が玉の井に集まり私娼街になった。

丸窓にステンドグラス(滝田ゆう傑作集『もう一度、昭和』より)
ダイヤの窓(滝田ゆう傑作集『もう一度、昭和』より)
ハートの下地窓(滝田ゆう傑作集『もう一度、昭和』より)

 大正12年(1923)以降に建築されたカフェー建築には、このような窓の意匠が流行していたのである。このように並べて見て、あなたはこれらを円相(禅宗の円窓)、四角窓、猪目窓というだろうか。おそらくキャプションの通り、丸窓、ダイヤ窓、ハート窓というのではないだろうか?

旧川本楼の下地窓

 ところで、滝田ゆうの漫画に登場するハートの下地窓したじまどに見覚えがないだろうか。そう、旧川本楼の「♡」三連窓と全く同じ作りなのである。 下地窓とは、土壁の一部に漆喰の本塗りを施さず、竹やよしによる小舞こまい下地を露出させた窓をいう。実は旧川本楼の内部には、このような下地窓が数多く見受けられる。

旧川本楼の「♡」三連窓(筆者撮影)
旧川本楼の娼妓部屋兼客室の下地窓(筆者撮影)
旧川本楼の階段上2階の下地窓(筆者撮影)
旧川本楼の3F客室の下地窓(筆者撮影)
旧川本楼の3F客室の下地窓(筆者撮影)

 また、旧川本楼は伝統的な日本古来の建築様式だと勘違いされている方がいるが、この総格子の遊廓建造物は古来から伝わる日本の建築様式ではない。大正後期に流行した三階建建物であり、和洋折衷様式の建物なのである。和洋折衷を顕著に示すのが、建物内部の水回りにタイルやモルタル、火を起こす焚き口にはレンガが用いられていることでである。

洗面台のタイルとおしゃれな格子の窓(筆者撮影)
浴室の白いタイルと木製のガラス窓(筆者撮影)
浴室の白いタイルとモルタルの壁、ガラス製のランプ(筆者撮影)

 このように大正13年(1924)に建築された旧川本楼は、当時流行していた意匠や建材をふんだんに使った大正期に建てられた和洋折衷様式の遊廓建造物であることがわかる。このことから、楼主が当時流行していたカフェー建築の要素も積極的に取り入れたことは想像に難くない。

 ちなみに、ここを運営する大和郡山市はどのような見解かというと、2020年に町家物語館のシルバー人材センターから派遣された管理スタッフに手渡したガイド指針に以下のような記述があり、この時既にハート窓の説明がなされている。すなわちこの時、公式には「三連ハート形窓」とされたことがわかる。

三連ハート形窓の説明(2020年ガイド指針)


ハートの意匠について

そもそもハートの意匠は広まっていたのか

 上述したように、①のコメントに「大正時代に「♡ハート」の模様が日本に広まっていたのだろうか?」という問いがあったが、これは「広まっていた」といえる。
 その理由は、明治35年(1902)任天堂が日本で初めて製造を開始したトランプの流行、当時の流行画家、竹久夢二(1884年- 1934年)が描いた絵にある。竹久夢二が描いた多くの絵には、ハートマークがデザインに使われている。

トランプに興じる芸妓(竹久夢二「砂時計」)
弥生美術館・竹久夢二美術館Facebookより

また、弥生美術館・竹久夢二美術館によると、明治期にはハートが「目に見えない恋」という感情を表す意匠として流行していたという。

 すなわち、大正後期にはハートという言葉の意味とハートの意匠は大衆に認知されており、これがカフェー建築や遊廓建築に用いられていたのである。なぜこれらの建造物にハートの意匠が用いられたのかは「言わずもがな」であろう。

まとめ

 以上のことから、旧川本楼の「♡♡♡」窓は、カフェー建築の影響を受けた大正時代の遊廓建造物であることがわかり、ハートの三連窓と言って何ら差し支えない。逆に「ハートじゃなく猪目窓」と言ってしまうことで、上のような竹久夢二らが好んで用いたというようなハート模様の文化的な背景、「大正モダン」を語ることができなくなるのである。百歩譲って意匠の名称は「猪目」でも「ハート」でも良いとしても、この意匠の意味を取り違えてしまうのは、この建物の特徴を語る上では得策でないと考える。

 以上、「猪目事件」が起こったことで、筆者の頭の中がすっきりとまとまったので、忘れないうちに記述しておく。念のため、有名な建築デザイナー嶋田洋平氏(株式会社ライオン建築事務所代表)、古建築の彩色専門家の山内章氏(天野山文化遺産研究所代表)、中世石造物の研究者である山川均氏(有限会社ワーク)ともディスカッションし、旧川本楼の「♡♡♡」窓が、ハートであるという私の考察に賛同頂いた。
 先生方には大変お忙しい中、貴重なご意見を賜りまして誠にありがとうございました。


【補足1】
Xのディスカッションで、今度のイベントでも登壇いただくことぶき氏から、以下のようなご指摘があったのでご紹介し、これについて説明をしておきたい。


もちろん、旧川本楼(町家物語館)も長い年月の中で増改築を繰り返しているが、このご指摘に対しての回答は「改築されていない」である。それがわかる理由は三つある。
(1)2018年オープン前に耐震補強のための調査が地元の建築士によって行われており、元家主である川本氏からの聞き取り及び、改築箇所の検討がなされた。その中に「三連ハート形窓」部分の増築はなかった。
(2)さらに言えば、旧川本楼の北側にもハート形窓があり、戦後に行われた北側階段の増設時に見えなくなってしまった(よく見ると痕跡がわかる)。
(3)「三連ハート形窓」のすぐ傍にはススの跡が残っており、この下はおくどさんで、この窓付近の構造は煙出しの役割があった可能性がある。
以上のことから、改築によるものではなく、建築当初より存在している下地窓であることがわかる。大変有意義なご指摘をいただいたことぶき氏に感謝申し上げたい。

「三連ハート形窓」すぐ傍のススの跡(筆者撮影)

【補足2】
下地窓したじまどは、茶室の窓によく見られる形式で、猪目の他に、梅や松の形状がよく見られる。旧川本楼の当時のご当主は茶道の師範でもあった(『大和郡山人物志』)ので、上述のような下地窓を多く使った遊廓建築になったと考えられる。それぞれの下地窓は床間のある客室や階段などに設置されており、「三連ハート形窓」とはその用途が異なることにも注意が必要である。


発端になったイベントの告知をこちらでもご案内しておきます。講演会は残席わずか。オンライン講演も行っています。詳細は下記から。

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