この写真は、昭和35年にアマチュアカメラマンの秦峯一氏が撮影した、通称「銀座通り」と言われた場所の一角だ。近鉄郡山駅前から岡町に続く通りで、売春防止法以前はこのあたりに飲食店が立ち並び、大変賑わっていたという。
前回紹介した、A婦人会副会長の意見の中に「赤線の町は不良少年が集って風紀も良くないという感じが強い。」というものがあり、私は「おそらく岡町のこと」と注を入れていた。なぜ岡町だと思ったのか、その理由は当時の新聞報道や、奈良県警察史(※1)から岡町で様々な事件が頻発していることがわかるからだ。
そこで今回は、昭和32年前後に郡山で起きたいくつかの事件をみながら、当時の社会問題と赤線地帯の関係を紹介したい。
※この記事は昭和30年代のものであり、現在では不適切な表現が含まれることがあるが、当時の記者が伝えたかったことを尊重し、改変せずそのまま掲載する。
※数字は、原本は縦書きであるため漢数字になっているが読みやすさを優先し、アラビア数字に変換した。
まずは、昭和31年1月29日サンデー郡山(※2)の記事から。
このように戦後10年経った頃の郡山の繁華街では、他都市の繁華街と同様、まだ戦後混乱の悪影響を引きずっていた。
上記の記事を見るだけでも、覚醒剤の入手先・使用動機いずれも「接待婦」が絡む項目が多く見られる。ブローカーや密造者の数も多く、これらから「赤線と覚醒剤、覚醒剤と暴力団、暴力団と赤線」の深い関係性が感じられる。
以下はあくまで私の想像に過ぎないが、前回の記事に「岡町の接待婦はGHQの要請によって連合軍兵士の相手をした」という話があったことからも、その際に覚醒剤が女性の間に蔓延したのではないかと思われる。この数年前に奈良市内に存在した連合軍の慰安施設「RRセンター」でも、米兵が持ち込んだ覚醒剤の蔓延が問題となっていた(※2)。
気になるのは、同じ赤線の洞泉寺の業者や接待婦はどうだったのか、ということだが、現時点でそれがわかる資料はない。今のところ暴力団との関わりでわかっているのは、旧住人の聞き取り調査で「売春防止法施行後に、下宿所となった建物に暴力団の男が女性と居着いていたが、怖いのでその建物ごと売却して立ち退いてもらい、一般民家になった」ということのみである。この建物を購入した人の娘さんから聞き取った内容だが、洞泉寺町全体がどうだったのかは、今後きちんと調べる必要があると考える。
上記の理由から、記事中の覚醒剤を使用・所持していたのは岡町の接待婦ではないかと推測したのである。
次は、当時の奈良県の地方新聞「大和タイムス」(※4)から、岡町の覚醒剤使用に関連する暴力事件を紹介する。
ここでわかるのは、赤線(特殊飲食店街)を訪れる多くの遊客を目当てに、いろんな業種の出店があったということである。それが「銀座通り」といわれた、近鉄線の線路沿いに多くの店が立ち並んだ場所であろう。この辺りは、通称で岡町新地などとも言われたエリアだと思われるが、今現在はっきりしたことは分かっていない。
覚醒剤蔓延のニュースも衝撃的な内容だったが、最後にもう一つショッキングな事件をサンデー郡山の昭和31年9月9日号から紹介したい。
当時は不良少年少女による犯罪が増加しており、社会問題となっていた。記事中にある「太陽族」という言葉は1950年代日本の若者風俗のことで、デジタル大辞泉によると、昭和30年(1955)石原慎太郎の小説「太陽の季節」から生まれた流行語、既成の秩序を無視して、無軌道な行動をする若者たちをいったとある。
記者はこの事件を起こした不良少年について「太陽族」を想起したようだ。この記事が報道された同日、郡山高校では校長から全校生徒への説諭があり、その中でも映画や出版物が若者に与える悪影響について述べていていた。
このように今から65年前、昭和32年前後の大和郡山市は、現在と比べて犯罪が多く混沌とした感がある。一般的に赤線地帯は「覚醒剤・暴行・金銭トラブル」のニュースが多く、その裏にある暴力団との関係をイメージしやすいが、郡山の2遊廓は実際どうだったのだろうか。これらについては町の噂でも色々といわれてきたが、きちんとした調査を行い、可能な限り歴史的事実に沿った内容を紹介できればと考えている。
次回は、奈良県の地方新聞「大和タイムス」に掲載された、奈良の赤線、特殊飲食店業社の動向について紹介する。
【参考文献】
※1 奈良県警察本部『奈良県警察史 昭和編』奈良県警察史編集委員会編1977.2-1978.3
※2 乾実『サンデー郡山より昭和三十年前後の郡山 下』サンデー郡山社 1979
※3 吉田容子「米軍施設と周辺歓楽街をめぐる地域社会の対応 : 「奈良RRセンター」の場合」地理科学2010 年 65 巻 4 号
※4 『大和タイムス』大和タイムス社 1957